棄権という「表現」と、「表現の場を退場しない」という選択

大坂なおみ選手の試合準決勝棄権が話題になっている。

大坂なおみが準決勝棄権、黒人銃撃に抗議(8月27日、共同通信、Yahoo!トピックス)

上記Yahoo!トピックス画像スクリーンショット

このこと自体のメッセージ性、「シンボリックな言論」としての性質も、「言論の自由」のひとつのテーマになりうるのだが、今回は、よりオーソドックスな「表現の自由」の話として、それ以前の6月に話題となった、この選手のツイートに着目したい。

ツイートは英語で書かれているが、日本でも読める。また大坂なおみ選手は日本国籍を持つ日本人である(筆者自身は日本で人権が保障されるべき人について国籍絶対主義をととってはいない、念のため)。本人のツイッター公表では、「私はアスリートである前に黒人女性です」と書いてあるので日本人として抗議しているわけではない、だからこれは「海外の問題」だ、と見ることは誤っている。日本人の中にも黒人女性は当然に存在する。

これは日本の「表現の自由」の領域に影響を与えうる、最良の教材になりうる言葉である。筆者自身、この言葉を憲法の授業の中で取り上げたいと思っている(発信者本人が公開を続ける限り、論評の対象となることは許諾されると考えている)。そこで、この言葉が、憲法とくに「表現の自由」の観点から、どう読めるか、考えてみたい。

次のツイートは、大坂選手本人の6月のツイートである。

訳すと、

私は、不特定の人たちから「アスリートは政治にかかわるべきではない、楽しませてくれればよい」と言われることが嫌いです。第一に、これは人権問題だからです。第二に、あなたが私以上に発言の権利を持っているとなぜ言えるのでしょうか。あなたの考え方でいくと、もしもあなたがIKEA(家具メーカー)で働いていたら、その会社の商品家具の話しかしてはいけないことになりますよ?

といった内容になる。

このツイートは多くのユーザーの共感を呼び、2万回以上リツイートないし言及されたことが、記録からわかる。このツイートの言葉はすでにメディアでも紹介・論評されている。

大坂なおみさん、「スポーツに政治を持ち込むな」ツイートに痛快な反論 『これは人権の問題です』 (生田綾・ハフィントンポスト・2020年06月05日)

この表現は、憲法を専門としている筆者からみても、的を射た名言と思える。沈黙強制といえる言論にたいして、「表現の場を退場しない」という選択を示した言葉として、憲法のカノン(教科書)に入ってもいい言葉ではないだろうか。

「政治の問題でなく、人権の問題」

まず、政治の問題と人権の問題、という分け方である。

人権をどういう方法で保障するか、どういう政策をとるか、という話は、政治の話といえる。むしろ、政治の話は、ここのところを中心に据えてもらわなくてはならない。人権とは、人間が人間らしく生きていけるための最小限の条件を、人間の側から主張できる「権利」の形に結晶化したもので、国や自治体の仕事(統治)は、この人権を実現することである。

しかし、それ以前の憲法の要請として、そのような意味をもつ「人権」として掲げられている事柄を、国や自治体が無視すること(今風に言えばスルーすること)は、憲法が認めない。まして、国や自治体がその人権を奪うような間違いをしてはいけない。これは、民主主義の決定よりも優位する、憲法のルールである。そうした憲法の要請のことを「立憲主義」という。憲法に規定された人権を制約することが許されるのは、よほどの差し迫った理由があるときだけである。

こうした大きな骨組みは、憲法前文や11条、98条、99条といった条文から読み取れる。

整理すると、私たちの暮らしにかかわるたいていのことは、民主主義の中でルールを決めている、政治的課題である。が、人権を保障しなくてよい、という選択肢は、封じられている。そこは「政治でなく人権問題」という言い方が通る部分なのである。

そして、私たちが国から不条理な扱いを受けることがないように定められた「法の適正手続」と、人種や性別や出身地によって不当な差別を受けることがないように定められた「法の下の平等」は、常に人権問題として意識される重要課題だった。これは、日本国憲法では14条「法の下の平等」と31条「法の適正手続」に、アメリカでは憲法修正14条に、明文で保障されている。

大坂選手がいう「人権の問題」は、今回、この二つの人権の問題である。

どちらの問題も、より確実な保障をするにはどうしたらいいか、という議論としては政治の課題になりうる事柄だが、これが侵害されたとき、それは法の問題である。「その侵害はあってはならない」という話は、政治によって「問題なし」としたり「どっちもどっち」にしたりすることはできない、「人権の問題」なのである。その意味で、大坂選手が、「政治に関わるな」という趣旨の発言に対して「これは人権問題だ」と反論するのは、憲法から見て正しい発想だということになる。

「表現の自由」を享受する資格は平等

第二の点に移ろう。「あなたが私以上に発言の権利を持っているはずはないのですが?(あるとしたらどういう理由・権限で?)」という指摘である。これは、「表現の自由」の理解として完全に正しい。

「表現の自由」はもともと、俗世に存在する力関係をいっさい無視したルールである。そこに意義がある。社会的地位の差、貧富の差、性別の差、話者が得ている人気や好感度の差、そしてこれらの現実の資源に応じた発言力の差というものは、存在する。しかし、「表現の自由」は、そこに対してあえて「ブラインドな(見ない、関知しない)」ルールである。

このことは以前に、芸能人やアーティストの発言の自由の問題として論じたことがある。

芸能人・アーティストの「政治的表現の自由」――民主主義は誰のもの? 検察庁法改正問題から考える(志田陽子 Yahoo!個人5月16日)

アーティストが《自由に発言すること》の社会的意味 ― 検察庁法改正問題が起こした市民意識の変容(志田陽子 Yahoo!個人5月18日)

だから、スポーツ選手であれ、芸能人であれ、政治家であれ、企業に所属する勤め人であれ、みな、発言権においては同じである。SNS上でも、拡散される発言とそうでない発言という影響力の差はあるが、これはユーザーが選んだ結果のことであり、その元となる発言者の発言資格のほうは平等だ。

これに対して、「発言するな」という指弾ないし命令は、発言資格を否定していることになる。「表現の自由」は、その法の下にある人々すべてにたいして平等な「人権」として保障されているので、大坂選手とこの指弾者との間で、発言資格に高低や優劣があるはずはなく、また、そういう優劣関係が作られるべきでもない。賛成できない発言に対して「私はそれには賛成できない」「私はその意見が嫌いだ」と述べること(批判)と、目障りな発言をする発言者に沈黙を命じる発言とでは、質が違うのである。

相手の表現・発言の内容を見て批評するのではなく、その表現・発言が行えなくなるように足元を撃つタイプの攻撃言論は、昨年の「あいちトリエンナーレ」以降、社会で大きくクロースアップされた。今、日本で議論され続けている「SNS誹謗中傷」の問題にも、この問題が含まれている。

この場面で毅然とスマッシュを打ち返すことのできた大坂選手は、「表現の自由」のプレイヤーとして、「表現の自由」のコートの上に踏みとどまって、その言論を行った。日本でもアメリカでも、「表現の自由」の理論は、このように打ち返せるプレイヤーであること、「対抗言論」を繰り出せる精神的自由の持ち主であることを、各人に期待している。

しかし、「表現」のコートの参加者が、それができないほどに心理的に追いつめられることもある。SNS誹謗中傷問題はそういう問題を含んでいる。また、「捏造」のように、その言葉によって研究者が職を失ったり、言論人としての発言の道を絶たれたりする強い作用をもつ言葉もある。これらの言葉が、もしも、たいした根拠もない悪口程度の感覚で発信されたとき、「表現」のコートから退場を余儀なくさせられる者の被害は深刻である。そこには、「自由」に任せるだけでは解決せず、法が出てこざるをえない問題がある。しかし、表現者としてその「場」に踏ん張れる者は、踏ん張って言論で打ち返す。「表現の自由」の論理を可能な限り尊重したいと考えている筆者にとって、こうした姿勢を見せてくれる言論プレイヤーが存在することの意味は大きいと感じる。

「それはあなたの言論の首を絞めることになる」

そして、第三番目の言葉は、憲法にとって、広い射程をもつ警告である。

「あなたがIKEAの社員だったら、あなたはIKEAの商品のことしか口にできなくなる」。

表現者としての発言資格の平等性、そして論理・ロジックというものの平等性を考えるなら、「その論法はあなたの言論の首を絞めることになる」、という指摘は、「表現の自由」を得意分野とする法学者からみて、正鵠を射ている。

しかし、このスマッシュが、日本の社会で、スマッシュとして正しく受け止められるだろうか?という一抹の不安が、筆者にはある。「〇〇は〇〇のことだけ述べればよく、政治について発言すべきではない」、という考え方は、すでに日本社会の全体を覆ってはいないだろうか。

カズオ・イシグロの「日の名残り」という小説がある。映画化もされ、アンソニー・ホプキンスがイギリス名士に使えた執事の役を演じているのだが、ここで執事は、主人の政治的判断には一切関心を持たず、主人を絶対化する姿勢を貫く。じつは国政や財政への関心は十分に持っているのだが、主人やその客人の前では、尋ねられても関心を持っていない演技をする。その演技の中に自分の良心を埋没させる場面も出てくる。

「日の名残り」YouTube公式公開予告編

アメリカのホワイトハウスを描いた「大統領の執事の涙」という映画作品に登場する執事たちも同じである。人種差別が激化し、同胞である黒人が痛めつけられている場面を目の当たりにしても、彼らは雇い主やその来賓の前では、一切、政治には関心がない(そもそも政治に関心をもつ知的能力は持ち合わせていない)という演技に徹する。

映画『大統領の執事の涙』YouTube公式公開予告編

こうした映画は、その状況を反省し捉えなおすために、そのシーンを入れている。当時はそれが職業倫理上、立派で模範的なことだった、しかし今の視点で見たとき、それでよかったのか、というやるせなさ、切なさが伝わるように作られている。カズオ・イシグロの作品では、その切なさは正面からは語られず読者にゆだねられている。「大統領の執事の涙」では、息子に激しい口調ではっきりと言わせている。大坂選手の言葉には、これらの映画に込められた呼びかけが重なっている。

翻って、日本社会では、いまだに、この執事たちの職業倫理感が主流となってはいないだろうか。たとえば、公務員には、勤務を離れたプライベートな時間でも、政治的言論は許されていない。教育公務員である公立学校の教員は、式典で君が代を歌うことが服務に定められた場合、その規則をスルーする自由、つまり「歌わない自由」は認められない。それっておかしくないですか、というビラを学校の敷地外で撒くことも、認められない(懲戒の対象となる)。

大坂選手の言葉の第三の部分は、大変論理的で整然とした皮肉なのだが、この反語ないし皮肉が、皮肉としてのパンチを持っているのは、その社会がまだ「個人」の「表現の自由」を認める社会である場合に限られるだろう。

大坂選手のこのスマッシュが、スマッシュとしての力を持たず、「はい、私たちの社会はそのとおりの社会ですけど、何か?」「まあ、あなたはそれが言えるほどのセレブになったってことなんでしょう」という冷めた笑いに音もなく吸い込まれていく社会があったとしたら、それは、「表現の自由」と「思想良心の自由」にとって末期的な社会だということになる。

しかし、筆者は、日本はまだまだ「末期症状」ではない、という希望を持っている。大坂選手のこの言葉を含む一連の発言・判断に、日本の多くのネットユーザーや識者・メディアが関心を示しているからだ。その中にはもちろん、Yahoo!の本日8月27日付の「トピックス」(本稿の冒頭に挙げたもの)も含まれる。

大坂選手の打ったボールが、《海外のスポーツ選手の話題》としてだけでなく、《日本の現状にも一石を投じる言論の自由の話》として、議論の活性化につながることを願う。


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