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もうひとりのクロサワ

黒澤明の『羅生門』(1950年)がサン・マルコ金獅子賞(現在の金獅子賞)を受賞したヴェネチア国際映画祭で、およそ70年を経ての銀獅子賞(監督賞)。「日本にはもうひとりクロサワがいる」と、すでに海外で知られていた鬼才は、とうとう日本国内でも一般に知られる存在となった。

「いろいろな方たちから祝福されたり、マスメディアへの露出が突如増えたりして、作品があちこちに知られるようになりました。ああいう大きな賞を獲ると、すごい効果があるのだなと実感しています」

銀獅子賞受賞作『スパイの妻』は、1940年代初めの神戸が舞台。偶然国家機密を知ってしまった福原優作と、その妻・聡子を主人公とした物語で、重いテーマでありながらも、サスペンスやメロドラマの枠組みを利用して、幅広い観客が楽しめる娯楽作品に仕上がっている。聡子を演じる蒼井優を筆頭に、俳優陣の演技も見どころだ。現代とは違う言葉づかいの台詞を見事にこなし、この時代の人物を完璧に〝生きた〟俳優陣を、9月に行った『GQ JAPAN』ウェブ版でのインタビューで、監督も絶賛していた。

監督と共同で脚本を手掛けたのは、東京藝術大学大学院で黒沢監督の教えを受けた、濱口竜介と野原位。ともに映画監督でもあるふたりが書いたものに、監督が手を加えて脚本は完成した。

「正直、よくこのストーリーを考えついたなと思いましたね。オリジナルだからこそ、娯楽映画としての自由も与えられることになった。とはいえ、そのまま撮ったら3時間をゆうに超えてしまう長さだったので、まず僕がやったのはそれを切ることでした。

あともうひとつ。彼らの脚本では聡子の心を大きく占めているのは、夫に女がいるのではという懸念でした。ところがいま思うと、僕は知らず知らずのうちに、彼女がその懸念を飛び越えて、夫の謎の解明に向かって積極的に行動するよう微調整していました。自分から倉庫に忍びこみ、自分から電車に乗って憲兵分隊本部に行き、みずから映写機を出してきて映写する。嫉妬心だけで聡子を動かしていくことが、僕にはできなかったんですね」

『スパイの妻』は、日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争開戦へと向かう時代を舞台に展開する。物語世界を覆う閉塞感に、現代の日本と通じるものを感じる観客も多い。

「実際に現在の社会状況を反映しているのか、こればかりは自分ではわからないですね。その最大の理由は、いまがどういう時代かというのを、その時代を生きている最中には把握できないことです。1940年代初めの日本の人々も、当時がどういう時代かわかってはいなかったでしょう。しかも数年後には状況はがらっと変わる。いま現在の状況も、あと何年も何十年も深刻度を増して続いていくのか、それとも来年にはみなさんけろっと忘れてしまうのか、予測するのは難しい。

当時と現代とがほんとうに似ているかはわかりませんが、人間の心自体は時代によってそんなに変わるものではありません。同じように何かを求め、何かにおびえている。劇的な時代を背景にして作られたドラマは、たぶんどんな時代に観られたとしても、社会と個人についての何らかのシンボルになるのだろうと思います」

40年かけて作風とテーマは変遷した

子どものころから映画好きだった黒沢監督が、映画作りへと向かったのは高校生のとき。友人が持ってきた8ミリカメラを見て、自分も撮りたいと思ったのだという。

「僕はたいていなんでもそうなんですが、好きなものって自分でもやってみたくなるんです。やってみて、『ああ、これはだめだ』ってなったら二度とやらないんですけれど」

立教大学の映画サークルで8ミリ映画制作にさらに熱中し、長谷川和彦監督、相米慎二監督の助監督を経て、ピンク映画『神田川淫乱戦争』(1983年)で商業監督デビュー。TVドラマやVシネマを含めて作品を精力的に撮りつづけ、『CURE キュア』(1997年)が海外へ紹介されたのをきっかけに、世界に名前が知られていくようになる。

どのシーンでもひと目見れば黒沢清だとわかる独自のスタイルがありながら、40年近くにわたるキャリアのあいだ、作風とテーマは少しずつ変遷しつづけてきた。筆者の眼に最も大きな画期として映るのは、20世紀から21世紀への境目の時期だ。「嫉妬心だけで聡子を動かすことはどうしてもできなかった」という先の発言からわかるとおり、アクション(行動)重視の姿勢はいまも黒沢作品の柱だが、20世紀の黒沢作品には、アクション重視をとおりこし、エモーション(感情)が欠落しているようにさえ見えるものがある。たとえば『地獄の警備員』(1992年)の結末で、生きのびた男女は、抱擁はおろか喜び合うことすらなく、あっさりと別れていく。この無機質で虚無的ですらある世界は、現在の黒沢作品の世界からはずいぶんと遠く見える。

「21世紀が始まるころは45歳ぐらいだったかな。年齢的にも、そろそろ自分のキャリアを見直したほうがいいという時期でした。20世紀の僕はある種、絶望と戯れていたのかもしれません。『この絶望は面白い、こんな絶望もある』と。これはフィクションですよと言って楽しんでいる場合じゃないと思いはじめたのが、たぶん21世紀になってからだと思います。9.11があったのも大きかったかもしれません。単に大人になっただけのことかもしれませんが」

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映画になにができるのか?

ところで今年、新型コロナウイルス流行にともなう緊急事態宣言が出され、人影が消えうせた繁華街の映像を見た映画ファンの一部は、奇妙にも同じ言葉をいっせいに口走りはじめた。「これは黒沢清の『回路』(2001年)じゃないか」と。

「確かにそうですね。4月ごろ、誰もいない渋谷や銀座の映像を見て、こういう画をむかし撮った記憶があるなと自分でも思いました」

『回路』だけではない。過去作品の多くには、終末や滅亡のイメージが刻印されている。『CURE キュア』や『カリスマ』(2000年)、『散歩する侵略者』(2017年)等々。そこで人々はばらばらの個へと分断され、秩序は解体される。これらのイメージは、まるで2020年の予兆であったかのようにさえ見えてくる。

「フィクションとして楽しんでいただくために作っていたのですから、現実がそうなっちゃ困るんですけどね。未来のことを深く思考して作ったわけでもありません。でも、人と周囲との関係は、一見揺るぎないように見えて実はすごくもろいものだということは、ずいぶん前からうすうすと感じていました。それは僕が映画を作るうえで、結構大きなモチーフになっていますね。だから個人が分断されてしまった状況、社会が個人をひとつずつ閉ざしていくような状況を、あの手この手で描いていたように思います」

そこで黒沢監督に問いかけてみる。分断や抑圧、闘争が至るところで可視化されているかのような現代にあって、映画はいまだなんらかの力を持ちうるのだろうか。たとえば一人ひとりの心を少しずつでも動かすことによって、大きな動きへとつなげていくことができるのだろうか。

「それはなかなか難しい問いかけですね。そのはずだと信じていますが、ほんとうにそうなのかと念を押されると、ぐらっと揺らがなくもない。ただ、この2020年になっても映画には、妙な力というか、人々の心をざわつかせる何かがあるらしい。『今度こんな映画が公開されるようだ』とか、『あれ観た?』とかが、いまだに会話の話題になる。繁華街のど真ん中にどーんとシネコンがあったりする。だから、映画ってまだ世の中の中心にあるんだなと、つい錯覚してしまいます。幻想かもしれませんが、まだまだ強さがあるような気がします。それから、これも古臭い言い方ですが、映画はいまも世界を知るための窓になっていると思います。テレビやインターネットとはまた別の独特なポジションで、フィクションの場合も含めて、世界を知るための手がかりになっていると僕は信じています」

人と周囲との関係は、一見揺るぎないように見えて実はすごくもろいものだということは、ずいぶん前から感じていました

最後に、今後予定している企画を尋ねてみると、コロナのせいで中断しているものがあるとのこと。

「幸い、途中まで撮影したのに止まってしまったのではなく、『あれやりたいね、これやりたいね、脚本そろそろ作りましょうか』みたいな段階で止まったので、準備期間がぐっと増えたぐらいにいまは考えています。ただ、下手するともう引退させられそうな年齢ですから、手早くぱぱっと何かやりたいなあとは思っているんですけれど。

あまり時代とか自分のキャリアとかに縛られず、やれそうなものはなんでもやっていきたいです。その意味ではこれまでと変わりません。海外のどこかでまたやりたいなとも思っています。それもあまり肩肘の張らない、『こんないい加減なものを海外でやるのか』っていうものを、できればやってみたいですね」

黒沢 清

映画監督

映画監督。1955年生まれ、兵庫県出身。『CURE キュア』で世界的な注目を集め、『トウキョウソナタ』(2008年)で第61回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞。『岸辺の旅』(2015年)で第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞。

Photos マチェイ・クーチャ Maciej [email protected] / Styling 櫻井賢之 Masayuki Sakurai
Hair&Make-up [email protected] / Words 篠儀直子 Naoko Shinogi

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