Q.好きな言葉は?「力」 Q.欲しいものは?「膝の軟骨、半月板、テクニック」Q. 中山雅史にあるものは?「負けず嫌いとサッカーを愛する気持ちだけ。ほかになにもないから中山雅史だった。なにもないからなにかを得ようともがき苦しみ、もがき苦しむことから抜け出すために、手を伸ばし、その先をつかもうと努力した。ずっとその繰り返しだった」

中山雅史

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鬼瓦ゴン蔵

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静岡県中部、海から5㎞ほど入ったところに日本サッカー界のスーパーアイドル:中山雅史が生誕した藤枝市岡部町はある。
実家は築100年を超え、父;中山儀助は、300羽の鶏、ミカン畑、茶畑を保有し、町議会議員も務めたことがある名士。
中山雅史は小4で岡部サッカースポーツ少年団に入った。
火木土は家から10分の小学校のグラウンドで練習、日曜は試合だった。
小6のとき、チームが志太リーグで優勝。
中山雅史は得点王。
さらにさわやか杯(静岡県大会)で優秀選手となって表彰された。
「プロのサッカー選手になりたい」
まだJリーグなどないころからの夢だった。
岡部中学ではサッカー部に入部。
最終戦は3年生のときに地区予選。
チームは敗退し県大会にも進めなかった。
その他にもコーラス部でテナーを担当し、東日本大会で優秀校になった。
陸上部の駅伝にも助っ人出場し、志田駅伝2位、藤岡駅伝で優勝し、中山雅史は区間1位だった。

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1983年、中山雅史は、藤枝高校に進学後もサッカー部に入った。
藤枝高校は、1924年に創設され、2年後に文武両道を目指した初代校長が蹴球部を設立。
サッカー部顧問となったのは、国語教師:長池實。
長池實は海外から書籍を取寄せ研究し、約20年間の指導で、全国大会(全国高校サッカー選手権大会)、インターハイ(全国高校総合体育大会)、国体(国民体育大会)で、1度の3冠達成を含む8回の優勝を経験した。
15歳の中山雅史は、パスやドリブルだけでなく、練習に対する態度も不器用で、まったく手を抜くことができなかった。
「放っておいてもいつも全力で練習し出し切ることができる子は初めて」
そういう鎌田昌治監督は、藤枝サッカー部出身で、1970年に高校サッカー選手権で優勝したときのキャプテンだった。
「個人の技術は大切だがそれを伸ばすのに3年間は短い」
と鎌田昌治監督は技術的なミスにはある程度目をつぶった
重視したのは、全力の姿勢。
「これだけやったのだから負けるハズがない」
勝負所で思えるだけの練習を部員に求めた。
特に中山雅史の代のチームは素質に恵まれておらず練習は激しさを増した。
練習試合で不甲斐ない負け方をしたとき、鎌田昌治監督はいった。
「走ろう」
ゴールラインから向こうのペナルティエリアまで約80mを13秒以内で走り、戻りは47秒。
合計1分。
そして合図に合わせて再びスタートする。
10本を過ぎた。
「もう1本」
15本が過ぎ
「もう1本」
中山雅史は思った。
(何本走るんだろう)
30本を終えた。
「あと10本」
(いつまで続くんだ)
部員は時間ギリギリに転がり込み、立ち上がり、もがくようにスタートに向かった。

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1984年、中山雅史は、2年生のとき第63回全国高校サッカー選手権大会静岡県予選決勝で東海大学第一と対戦。
戦前の「東海大一有利」の予想通り、藤枝高校は押され続けたが、前半30分、縦パスに反応した中山雅史がディフェンダーを振り切ってゴール。
ワンチャンスをモノにし試合の流れを引き寄せた藤枝高校が3対1で勝ち、5年ぶり18回目の全国大会出場を果たした。
全国大会準決勝で長崎県立島原商業高等学校と対戦しPKで負けた。
藤枝高校は、4試合で0失点、中山雅史は4試合2得点だった。
チームが苦しいときに流れを変えるゴールを決めてくれる選手だったが、後にJリーグで157ゴールを決めワールドカップでも得点する選手になろうとは、鎌田昌治監督は想像もしなかった。
「もし中山が器用で高校でテクニックを評価されていたら今の中山はいないかもしなれい。
自分がうまくないことを中山は自覚していた。
足りない部分を何で補い周囲にどのようにアピールしていけばいいか。
そういうことを高校のときからすでに理解し実践していた・
トコトン頑張る選手であることは確かだが、それ以前にすごく賢い選手だった」
1986年、中山雅史は、筑波大学体育に入学してサッカー部に入部。
俺たちひょうきん族」でビートたけしが演じる鬼瓦権蔵に似ていると「ゴン」と呼ばれるようになった。
ヤマハ発動機との練習試合で筑波大学は3対0で負けたが、中山雅史は、どんな相手にも恐れず競り合い、1タッチ、2タッチ、早く、高く、ボールと相手の間がないに等しい空間に鼻先をこじ入れようとし、何点負けていようと最後まで全くあきらめようとしなかった。

うまい選手や速い選手はたくさんいるが、ゴンのようないい選手はそうはいない

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1990年4月、中山雅史は静岡県磐田市のヤマハ発動機に入社し、サッカー部に入部。
サッカー部員の出社を免除する部署もあったが、中山雅史が配属された人事部は、現役を終えた後のために少しでも仕事をしていたほうがいいと仕事をさせた。。
1日の仕事ははラジオ体操から始まった。
朝礼が終わると机に向かった。
「もしもし人事部の中山です。
主査はいらっしゃいますか?」
「はい、私ですが」
「先日のセミナーの提出書類がまだのようですがどうなっていますでしょうか?」
「あれっ、出していなかったっけ」
「はい、まだなんですが」
「・・・・・・・・・・・・ああ、あったあった」
「早急に人事部に提出していただけますか」
引き出しに入った封筒をサイズごとにそろえ、中間管理職に電話をかけ受講したセミナーや講習会のレポートの提出を促し、青年海外協力隊の希望者の面接を行った。
業務は11時半で終了。
やり切れなった仕事は寮に持ち帰ることにして、社食で昼食をとって練習に向かった。
ジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機サッカー部は、1972年に設立され1978年に自前のグラウンド:ヤマハ発動機東山グラウンド(現:ヤマハスタジアム)をつくり、1982年、後に日本代表監督にもなるハンス・オフトをコーチに迎え、日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格、天皇杯全日本サッカー選手権で優勝。
国内では読売クラブ、日産自動車に次ぐ3番手のクラブとして認知されていた。
ヤマハ発動機の練習グラウンドは、かつて野球場だったので通常のサッカーグラウンドより広かった。
しかし中山雅史が入団したての頃は、まだ内野の部分は土のままで練習は外野で行われた。
クラブハウスもなく、車で10分ほどの誠和寮で着替えてからグラウンドにいかなければならなかった。
そして練習後は誠和寮に戻り風呂に入ってから家に帰ったが、夏はグラウンド脇の水道からホースを引いて水浴びをした。
やがて更衣室とシャワーがグランドの隅に建てられると「部室」と呼ばれた。

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入団当時、シュートを外すとよくうつむいていた中山雅史に内山篤は声をかけた。
「大丈夫。
誰だって外すんだ」
「顔を上げよう」
「次のチャンスに入れることを考えよう」
内山篤は、1982年にヤマハ発動機サッカー部に入り、3年後には日本代表に選ばれ、1986年から3年間、ヤマハ発動機サッカー部キャプテンとなり、1988年には日本サッカーリーグ初制覇にチームを導いた。
1991年、中山雅史が入団して2年目、長澤和明監督にコーチ就任を請われ、引退。
「チームが苦境に立たされたとき頑張れない選手は、『俺はやっている。悪いのはアイツだ』と人のせいにする。
いい選手は人のせいにしない。
チームが苦しくなればなるほど頑張る。
うまい選手や速い選手はたくさんいるが、いい選手はそうはいない。
ゴンのようないい選手を育てたい」
(内山篤)

ヤマハ発動機 Jリーグに入れず 「最短でも3年の遠回りになるが・・・」

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1991年、ブラジルで2年前に現役を引退しスポーツ担当大臣をやっていたジーコが日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役に復帰。
初めて住友金属の土の練習グラウンドをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くにシャワールーム、フィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、ロッカールームに散らばったシューズを見つけると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始め、お菓子を食べている選手には
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
2月、1993年から始まるJリーグに加盟する10クラブが発表された。
ヤマハ発動機は加盟を希望していたが、自前のスタジアムがないことがネックとなって選ばれなかった。
中山雅史は清水エスパルスなどいくつかのJリーグ加盟クラブから移籍を誘われていたが直感的に
「ヤマハ発動機サッカー部に賭けよう。
Jリーグに這い上がろう。
最短でも3年の遠回りになるが、そこで戦いもがく経験が自分にとって必ず意味を持つはずだ」
と思った。
事実、その経験は、勝利に対する執着心を強め、苦境に負けない精神力を育み、そして中山雅史に努力を重ねさせ逞しくした。

オフトジャパン

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1992年3月、サッカー日本代表監督に、1982年に当時2部だったヤマハ発動機に臨時コーチとして来日し2カ月で1部昇格および天皇杯初優勝に導いた経歴を持つ
44歳のオランダ人のハンス・オフトが就任。
そしてヤマハ発動機サッカー部からは副キャプテン:吉田光範と中山雅史が日本代表に召集された。
Jリーグ以外のクラブで日本代表を出したのはヤマハ発動機だけだった。
中山雅史は日本代表でも、いつも正面に「YAMAHA」のロゴが大きく入ったキャップをかぶった。
ハンス・オフト監督は最初の浜松のキャンプで
「選手の状態を知りたい」
と22時までロビーに居座り、誰が出入りし、誰と誰が仲がいいかなどをチェック。
22時30分になるとコーチに部屋をみてこいと指示し、誰が寝て誰が起きてるかチェック。
朝は必ず選手たちと握手し、トレーニングや個々の選手の情報などなんでも気がつけばメモを取った。
ミーティングは、準備のために1時間前からミーティングルームに入った。
集中しやすいようにイスを並べ、模造紙に字や図を書くのだが、
「見えるか?」
とスタッフに聞いた。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒。
食堂の机はコの字に配置され、真ん中に監督とスタッフが入り、あとは自由。
オフト監督からはすべての選手と選手の食事がみえた。
「ちゃんと食事がとれないといいパフォーマンスはできない」
と食べ方や食べる量をチェックし
「私の近くに座る選手は私を信頼している」
と判断した。

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それまで日本代表のミーティングはラモス瑠偉を中心に行われていたが、オフト監督はそれに代わった。
練習初日、選手を呼ぶときの指笛を吹くオフト監督に対しラモスは
「俺達はあんたの犬じゃない」
と抗議しつっかかった。
「冗談じゃないよ」
メディアにも公然と不満をぶちまけるラモスを呼び出しオフト監督は
「もう代表に来なくていい」
といい渡した。
実際に外されることはなかったが、食堂でラモスは監督から1番遠い席に座った。
オフト監督とラモスはサッカー観も対立した。
オフト監督は、選手個々のタスク(役割)を徹底させ、サイド攻撃を重んじたが、ラモスは自由奔放な中央突破を理想とした。
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自由と自主性が1番と考える三浦知良も規律主義のオフト監督に反発があった。
清雲栄純コーチ(古川電工、日本代表)は、オフト監督の命を受け、毎晩、選手がちゃんと寝ているかチェックした。
あるとき三浦知良だけ起きてマッサージを受けていたので
「もう寝ろ」
と注意すると
「俺の体は俺が1番知っているんだ」
と返された。
三浦知良は練習が終了してもなかなか戻らず、1番最後にシャワーを浴び、マッサージもタップリ行い、アイシングにも時間をかけた。
また高校まではラグビー(花園を経験)で大学からサッカーを始めた清雲栄純に
「清さん、サッカー知らないじゃん」
といったり
「キヨーッ」
と呼び捨てにしたり、頭を小突いたりした。
オフト監督は選手に疑心暗鬼の目でみられながら、それまで自由だった戦術に、
「アイ・コンタクト」
「トライアングル」
「サポート・ディスタンス(サポートの距離)」
「サポート・アングル」
「サポート・タイミング」
「チェンジ・リズム」
「チェンジ・サイド」
「スモール・フィールド」
「アグレッシブ・タックリング」
「リスタート」
などのルールを決めて落とし込んでいった。
チームの最大目標を「ワールドカップアメリカ大会出場」とし、海外遠征、国内に海外クラブを招いての試合、ダイナスティカップ(現:東アジアE−1選手権)、アジアカップなどは、その過程と言い切った。

カズとゴン

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7月、日本代表はオランダ遠征を行った。
このとき三浦知良は中山雅史と公園の芝生の上で寝そべりながら
「ワールドカップいこうな」
などと熱く語り合っていた。
しかし周りがゲイのカップルだらけなのに気づくと日本代表のツートップはすぐに無言で帰った。
キングカズこと三浦知良と中山雅史は長らく日本代表で2トップを組んだ。
フェイントとドリブルで相手を抜き去る三浦知良。
少しでも得点の匂いがあれば、体を投げ打ってゴール前にダイブする中山雅史。
2人の相性は抜群だった。

「サブの生き様をみせてやる」

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平均年齢29歳の日本代表の中で26歳の中山雅史はサブ組だったが、レギュラー組に負ける気はしなかった。
紅白戦には
・対戦相手のフォーメーションで戦うこと
・ケガをさせてはいけない
という約束事があったが
「勝ってはいけないというルールはないはず」
「紅白戦だろうがなんだろうがやる以上は勝ちにいく」
「サブの生き様をみせてやる」
と思っていた。
そして清雲栄純コーチも入ったサブ組はレギュラー組との紅白戦で2勝2敗。
サブ組の本気は日本代表の雰囲気を変えた。
レギュラー組は危機感と緊張感を高め、その姿勢にサブ組は納得し、チームはより一体となった。
8月22〜29日、中国の北京でダイナスティカップが開催。
日本はグループリーグ初戦の韓国戦で引き分けたが、続く中国と北朝鮮に勝利しグループ1位。
2位韓国と戦った決勝は、2対2からPK戦で勝利し優勝した。
日本が海外の国際大会で優勝するのは初めてでチームは大きな自信を得た。
「技術、体力はすぐには向上しない。
理由は明らか。
戦術なんだよ。
中国、北朝鮮、韓国を連破できるなんてあり得なかった。
今ある選手の能力をいかにチームとして高めて勝負するか。
これぞプロ監督」
(川渕三郎)
4対1でリードしていた北朝鮮戦の80分に、中山雅史は準備を命じられ立ち上がった。
そして歩き始めたとき、オフト監督の声が聞こえた。
「行くぞ!」
(えっ、もう?)
81分、この試合2ゴール高木琢也と交代。
あわててピッチに入ったが、その後のパフォーマンスは最悪だった。
3日後の韓国戦では、試合開始直後から走り始めた。
0対1でリードされた前半42分、オフト監督に呼ばれ、後半38分、日本代表初ゴールを決め、試合を振り出しに戻した。

「俺はお前を信じている。お前も俺を信じろ!」

 (2197285)

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10月29日〜11月8日、第10回アジアカップ広島県で開催。
20ヵ国が6グループにわかれ予選に参加し、各グループの1位が本大会に出場するというシステムで、強豪国の韓国は予選で敗退し、日本代表は2大会連続2回目の出場を決めた。
そして本大会は、グループリーグA組(日本、アラブ首長国連邦(UAE)、イラン、北朝鮮)、B組(サウジアラビア、中国、カタール、タイ)にわかれ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、合計4チームが決勝トーナメントに進む。
グループステージ第1戦、日本はUAE戦を0対0で引き分け。
第2戦の北朝鮮は、前半29分に先制された。
後半、24分にPKのチャンスを得たが三浦知良が決められず、後半35分に交代出場した中山雅史が三浦知良のコーナーキックにヘッドで合わせ、1対1で引き分けた・
第3戦のイラン戦。
グループステージを突破するために勝つしかない日本と引き分けでも突破が決まるイランの試合は0対0で前半を終えた。
ハーフタイム、オフト監督は
「残り20分を切ったら前線からプレスをかけ、残り10分になったら後ろ(最終ライン)には3人だけ残して守備陣も攻めに出ろ」
と指示を出した。
後半8分、イランは退場者が出し、日本は数的優位に立ったが得点を奪えなかった。
後半35分、残り10分になり、主将の柱谷哲二は3人だけ残すという監督の指示を破り、2人だけを残して攻めに参加させた。
後半40分、井原正巳のスルーパスを三浦知良が右足でシュートした。
「思い切って、魂込めました、足に」
劇的なゴールにスタンドは総立ち。
歓声が広島ビッグアーチ(現:エディオンスタジアム広島)の背後の山に反響し、学園祭が行なわれていた付近の大学は騒然となった。
決勝トーナメントは準決勝、決勝と2回勝てば優勝。
日本はまず中国と対戦。
開始30秒で先制され、0対1のまま前半は終わった。
後半3分、福田正博が同点ゴール。
後半12分、北澤豪が逆転。
後半15分、ゴールキーパー:松永成立がコンタクトプレーの後に相手選手を蹴ってしまい退場。
ゴールキーパーの前川和也が入り、北澤豪がベンチに下がった。
後半25分、前川和也が何でもないボールを後ろにこぼし同点とされる。
後半39分、ラモス瑠偉 – 堀池巧 – 福田とつないで中山雅史がヘッドで決め、3対2で勝った。
決勝戦はこの大会2連覇中のサウジアラビアと対戦。
しかし序盤から主導権を握り、前半37分、都並敏史からパスを受けた三浦知良がセンタリング。
これを高木琢也が胸トラップからのボレー。
この先制点を守り抜き勝利
日本代表はアジアカップで初優勝した。

 (2197283)

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中山雅史は北朝鮮戦の同点弾、中国戦の決勝弾をいずれも途中出場で叩き込んで「スーパーサブ」と呼ばれた。、
「チームが下痢のときと便秘のときにだけ僕に出番が回ってくるんですよ」
下痢は大差がついている試合、便秘は拮抗している試合。
先発を望んでいた中山雅史は、日本代表を取材していたテレビカメラに向かって大声でいった。
「オフト、俺はお前を信じている。
お前も俺を信じろ!」
日本で開催されたアジアカップで優勝したことでサッカー日本代表は俄然注目されるようになった。
翌年のJリーグ開幕に向けての呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。
中山雅史の熱意溢れるプレーは話題となった。
そのトーク、中山節も人気でニッポン放送のサッカー番組でレポートコーナーが常設されるなど、全国的にブレイクした。

Jリーグ

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1992年シーズン、ヤマハ発動機は13勝無敗。
中山雅史は13得点でジャパンフットボールリーグ得点王となった。
「同じボール、同じ状況は2度と来ない。
経験がそのまま次に生きることはない。
だがだからといって経験を曖昧なままにしておけば次はない。
天才は経験に頼らずひらめきでプレーできるだろうが、僕は天才ではない。
常に目の前の練習に集中するしかない。
やり続け、やり続け、やり続け、やり続けること。
1本1本を体に刻み込み、100万分の1の確率を50万分の1に、50万分の1を25万分の1に変え、偶然を必然に追い込みたい」
1993年、Jリーグが発足した。
参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
ジュビロ磐田は開幕参加を望んでいたが、スタジアムを保有していなかったことがネックとなり、1994年からの参戦となった。
本来、開幕は3月だが、この年は4〜5月までワールドカップアメリカ大会のアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたサッカー協会は5月15日に開幕を遅らせた。
Jリーグにはラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは豪快で華麗で芸術的で観客を見惚れさせた。

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1993年5月16日のJリーグ開幕戦、名古屋グランパス戦で、前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決め、5分後の前半30分にも芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成。
そして5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま1stステージで優勝した。
2ndステージは、ラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディ川崎が優勝。
両チームはチャンピオンシップで年間優勝を争った。
チャンピオンシップ第1戦、ヴェルディが2対0で勝った。
第2戦は、0対1でヴェルディ川崎が負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにジーコは唾を吐、退場させられた。
まるでジーコらしくない行為だった。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
ジーコは、1993年の開幕から1994年の6月までJリーグでプレーし、23試合14得点。
その間、普段の練習から全力を尽くし、紅白戦、サブ組の試合でも勝つために戦うという勝利への執着心をチームに植えつけた。
現在でも鹿島アントラーズは
「常勝軍団」
と呼ばれ、所属する選手は
「鹿島でプレーするということはタイトルを獲ること」
と認識している。
まだジーコ魂は健在である。

ジュビロ磐田 Jリーグ昇格

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1993年、ヤマハ発動機はJリーグに上がるためにはJFL(ジャパンフットボールリーグ)を2位以内でシーズンを終えなければいけなかった。
「なにがなんでも勝つ!」
チームは狂気に包まれた。
キャプテンでゴールキーパーの森下申一は、富士通(現:川崎フロンターレ)戦で、オフサイドのジャッジに納得できずゴールマウスから飛び出し線審に迫り、中央防犯(現:アビスパ福岡)戦では、試合終了直後に右足でグラウンドの立て看板を蹴り倒した。
勝ちさえすればプロセスはどうでもよかった。
森下申一は中盤でボールを奪われるリスクを避けロングボールを前線に蹴りこんだ。
そのボールをワントップの中山雅史は待ち受けた。
開幕から7試合6ゴール。
1試合5ゴールもあった。
1993年8月、神奈川県の海老名公園陸上競技場で行われたJリーグの下部組織:JFL(ジャパンフットボールリーグ)1部、ジュビロ磐田 vs 東芝(現:コンサドーレ札幌)戦が行われた。
観客数は2500人。
3日前に東京の国立競技場で行われたJリーグ、ヴェルディ川崎 vs 名古屋グランパス戦は、54977人だった。
この時点でJFLの順位は
1位 フジタ(現:湘南ベルマーレ)
2位 ジュビロ磐田
3位 東芝
4位 ヤンマーディーゼル(現:セレッソ大阪)
Jリーグに昇格するためには2位以内でのシーズン終了が必要だった。
ジュビロ磐田のフォワードは、中山雅史とアントニオ・カルロス・アンドレ。
前半11分、アンドレの得点でジュビロ磐田が先制。
35分、東芝が同点に追いつく。
44分、中山雅史がペナルティキックを決めた。
89分、ジュビロ磐田の勝利かと思われたが東芝が同点ゴール。
延長戦に入り、ジュビロ磐田陣内でのボール争奪戦が続いた後、ボールは大きく蹴り出された。
明確な意図のあるパスではなく、とりあえず東芝陣内に蹴りこんでおこうというロングキックだった。
ボールはハーフラインの向こう5mに落ちた。
1番近くにいたのは東芝の石崎信弘。
2番目に近かったのは中山雅史。
2人は東芝ゴール方向に弾むボールを追いかけた。
中山雅史は石崎信弘を背中から追いかけ、ボールのツーバウンド目で追いつき、少し背中を丸め低い姿勢で石崎信弘の前に頭をこじ入れヘッドでボールを東芝ゴールに向けて押し進めた。
石崎信弘は中山雅史の腰に腕を回ししがみつきラグビータックル。
中山雅史はそれを引きずりながら前進。
振り切られた石崎信弘は地面に落ちて1回転した。
中山雅史はペナルティエリアに侵入。
再びゴールキーパーのラグビータックルを足首に受けながら左にかわしてシュートを決めた。
「俺がジュビロの中山だ〜」
1993年シーズン、ジュビロ磐田は14勝4敗でフジタに次いで2位。
中山雅史は18試合18ゴール。
11月3日の夕方、磐田市に放送が鳴り響いた。
「ジュビロ磐田がJリーグに昇格しました」
市内数か所で花火が上がり、県道磐田停車場、愛称ジュビロードは人々で埋め尽くされた。
中山雅史は合宿を行っていたヤマハリゾートでマイクの前に立った。
「負けられない試合ばかりの本当に厳しい1年でした。
このチームでJリーグに入れたことが本当にうれしいです。
このシーズン、日本代表で活躍できたのもジュビロ磐田に残ってがんばった結果だと思います」

ワールドカップアメリカ大会 「ドーハの悲劇」 日本代表 最終予選最終戦ロスタイムで同点にされ本大会出場ならず

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1993年、翌年に行われるワールドカップアメリカ大会に向け、アジア予選が開始された。
1次予選はA〜F組にわかれ6ヵ国が通過。
最終予選はその6ヵ国が総当たり戦を行い、上位2ヵ国がワールドカップの出場権を得る。
日本は1次予選F組を7勝1分けで通過。
カタールの首都:ドーハに移動し最終予選に挑んだ。
通常は各国代表は別々のホテルに別れるが、湾岸戦争(1990年8月2日、イラク軍がクウェート侵攻、1991年1月17日、多国籍軍がイラクを空爆、1992年3月3日、暫定停戦協定)の影響で日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアは1つのホテルの同フロアに宿泊し厳しく警備された。
日本はスタッフが9階、選手が8階。
別棟7階にキッチンと食堂、ミーティングルームを確保した。
オフト監督は食事を大事にしたが、UAEで行われた1次予選のときはホテルの厨房の使用許可が下りず、ドーハでは自分たちのキッチンを用意した。
日本から同行したシェフは、朝、昼、晩、毎食バイキング形式で食事を用意した。
納豆などは無事空港を通ったが、米など持ち込めなかった食材は現地で調達された。
そして
第1戦、サウジアラビア 0対0
第2戦、イラン 1対2
第3戦、北朝鮮 3対0
第4戦、韓国 1対0
と第5戦を残し、日本は1位。
2位 サウジアラビア
3位 韓国
4位 イラク
5位 イラン
6位 北朝鮮
と続いた。
第4戦で、これまで40年間勝っていなかった韓国を1対0で破ったことで、第5戦が残っているのにまるでもうワールドカップ本大会出場が決まったような雰囲気が生まれた。
「まだ終わっていないよ」
ラモスが選手たちにしつこくいった。
実際、第5戦の結果次第で北朝鮮以外の5ヵ国に本大会出場のチャンスが残されていた。
第5戦の組み合わせは
日本 vs イラク
サウジアラビア vs イラン
韓国 vs 北朝鮮
だった。
日本は勝てば、他の試合の結果にかかわらずワールドカップ本大会出場が決定。
引き分けても
・サウジアラビア vs イラン戦が引き分け
・イラン勝利、
・韓国 vs 北朝鮮戦が引き分け、
・北朝鮮勝利
・韓国が1点差以下で勝利
の場合はワールドカップ本大会出場が決定するという、かなり有利な立場だった。
3位の韓国は自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で北朝鮮に勝っても日本とサウジアラビアが勝てば本大会出場ができない状況だった。

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1993年10月28日、日本 vs イラク戦がアル・アリ競技場で開催された。
両国の対戦は9年半ぶりで、過去の対戦成績は日本の0勝3敗1分け。
この試合から出場停止中だった主力2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。
イラクは最終予選を通して不利な判定を受けていた。
イラクとワールドカップ開催国:アメリカは湾岸戦争で敵国。
イラクがアメリカ大会に出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれていた。
にもかかわらずここまで最終予選を1勝2分け1敗。
イランに勝ち、韓国、サウジアラビアと引き分け、北朝鮮戦も2対0でリードしていたが途中退場者を出て負けた。
しかも得点数は6ヵ国中1位。
間違いなく強かった。
日本の前線には三浦知良、中山雅史、長谷川健太が立った。
イラクは出場停止処分が重なり主力数名を欠いていた。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート。
クロスバーに弾かれたボールを三浦知良がヘディングで押し込んだ。
勝利しか本大会出場の望みがないイラクは、ボールを奪うとカウンターを仕掛ける展開。
前半は1対0で終了。
このとき他の2会場は
『サウジアラビア 2対1 イラン』
『韓国 0対0 北朝鮮』
このまま勝敗が進めば日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
ハーフタイムではオフト監督が
「Shut Up(黙れ)」
と何度も怒鳴らなければならないほどロッカールームに引き上げてきた選手たちは興奮状態で、各々勝手に話し合っていた。
選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況が続き、オフト監督が
「U.S.A. 45min(アメリカまであと45分)」
とホワイトボードに書いて説明しようとしたら後半のブザーが鳴ってしまった。

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後半、日本は運動量が落ち、イラクがボール支配率を高め攻勢を強めた。
後半15分、アーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ1対1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねていて、日本は勝たなければ予選敗退となる。
後半24分、ラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインギリギリで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角にショートを決め、2対1。
ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並敏史は
「こりゃオフサイドだ。
これ、くれるか」
とつぶやいた。
ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ、微妙な判定なら流すと予想していた。
この勝ち越しゴールも中山雅史がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。
その後、両チームとも疲労が激しく膠着状態が続き日本勝利かと思われた。
後半44分50秒、武田修宏がまだ味方が詰め切れていないイラクゴール前へセンタリング。
このルーズボールをラモスが回収し、最終ライン裏へ浮き球のスルーパスを通そうとした。
イラクはこのパスをカットし、自陣からカウンターアタックを仕掛け、最後はコーナーキックのチャンスを得た。
試合時間は後半45分を超えてロスタイムに突入した。
ロスタイムに入り、いつ主審が試合が終わらすかわからない状況ではコーナーキックはゴール前へ直接センタリングを蹴るのが常識。
しかしキッカーのライト・フセインは、意表を突きショートコーナー。
三浦知がプレスに走りスライディングをかけた。
しかしフセイン・カディムは振り切らりセンタリング。
オムラム・サルマンがヘディングでシュート。
ボールはゴールキーパー:松永成立の頭上を放物線を描いてゴールに吸い込まれた。
2対2。
イラクはすぐにセンターサークルにボールを戻し、最後まで勝利を目指す姿勢をみせた。
日本はキックオフから前線へロングパス。
しかしをボールがタッチラインを割った時点で笛が鳴り試合は終了した。
ベンチに下がっていた中山雅史は頭を抱えながら崩れ落ちるように倒れこんだ。
この試合はテレビの生放送されていたが、
「決まった!」
と現地で実況中継していたアナウンサーが叫んだ後、同じく現地にいた解説者も、東京のスタジオでゲスト出演していた釜本邦茂(ガンバ大阪監督)、森孝慈((浦和レッズ監督)、柱谷幸一(浦和レッズ、日本代表キャプテン:柱谷哲二の兄)らも誰も一言も発せず、まるで放送事故のようだった。
「仕方ないですね」
沈黙が30秒近く続いた後、なんとかアナウンサーが続けた。
試合終了後、画面がスタジオに戻っても釜本邦茂も森孝慈も柱谷幸一も何もいうことができない。
柱谷幸一は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。
深夜にもかかわらず番組の視聴率は48.1%を記録。
ワールドカップ出場を直前で逃した日本代表には、帰国後、厳しい批判にさらされることが予想された。
日本の多くのファンは、日本代表を好意的に受け止めていて、成田国際空港に到着した日本代表は多数のファンに温かく迎えられた。
しかし数日後、日本サッカー協会強化委員会は
「修羅場での経験不足」
を理由に翌年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。

負けることは嫌いだが、いいわけはもっと嫌い。

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1994年、新しいシーズンが始まった。
「ようやくスタートラインにたどり着けた。
ここから本当の戦いが始まる。
遠回りしていいる間に開いてしまった差を少しでも早く縮めたい」
充実した気持ちで練習をしていたとき、腹部に張りを感じ、やがて痛みとなり、シュートを放つと激痛が走った。
やがて腹部の痛みはひどくなり寝返りを打つのも苦痛になったが、やっと上がれたJリーグを休みたくなかったので我慢して練習を続けた。
3月12日、ヴェルディ川崎戦でジュビロ磐田がJリーグデビュー。
前半36分、中山雅史は左サイドからのセンターリングに反応し、ディフェンダーの間に走りこんでヘディング。
ゴールキーパーは1歩も動けず、ボールはその左横を通り抜けた。
しかし腹部の痛みはひどく試合翌日から3、4日はジョギングのみで、試合前々日、あるいは前日に全体練習に参加し、当日、痛み止めを打って出場。
そんなことを続けていたが、4月27日の名古屋グランパス戦を最後にチームを離れた。
病院の診断は、「恥骨結合炎」だった。
骨シンチグラフィ検査を行うと恥骨が疲労骨折寸前の状態だった。
積極的な治療法はなく安静にして炎症が消えるのを待つしかなかった。
毎日プールの中で水中歩行する以外は運動も禁止された。
しかし5ヵ月経っても痛みは消えなかった。
(一体いつ復帰できるのだろう?)
不安と腹立たしさの中、菊原志郎や福田正博が似たような痛みを経験しドイツで手術を受けて復帰したという情報が入り日本を離れた。
ドイツでの診断の結果は「グローインペインシンドローム(鼡径部痛症候群)」
中山雅史は、3ヵ所、腹膜から筋肉が飛び出ていた。
「恥骨結合炎」は痛みの本当の原因ではなかった。
グローインペインシンドローム(鼡径部痛症候群)は、骨盤の捻じれや歪みが原因で痛みが起こる障害。
日本では子供や妊娠や出産直後の女性に起こるものとされていたため見落とされてしまった。
キックやランニングの繰り返すサッカーでは、鼠径部、股関節周辺、骨盤にメカニカルなストレスが加わり、体幹から股関節、下肢の筋力低下、柔軟性低下、拘縮、そして鼠径部周辺の痛みが起こる。
手術を受けて、2ヵ月間のリハビリを重ねて帰国した。
結局、1994年は8ヵ月間、ピッチを離れシーズンを棒に振った。
1995年3月22日、中山雅史はガンバ大阪戦でヘディングでゴール右隅にボールを叩き込んだ。
そして大きく跳び上がり右拳を突き上げた。
343日ぶりのゴールだった。

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1996年、中山雅史は、ジュビロ磐田のキャプテン、そして最年長になった。
練習では常に先頭に立ち、1番速く走り、1番激しくプレーした
1番早くグラウンドにいき1番遅く出た。
負けることは嫌いだが、いいわけはもっと嫌い。
ウォームアップのストレッチができないほど膝の状態は悪くても、絶対にケガのせいにしなかった。
「中山さんがあんなにやってるんだから俺らもやらないわけにはいかない」
名波浩、藤田俊哉、川口信男などの若い選手は自然に引っ張られた。
1997年、前年11月に手術で半月板を削った右膝のリハビリが始まった。
右膝は、まだ大きく腫れ、真っすぐ伸ばすことも深く曲げることもできなかった。
長いときは9時から22時までジムでリハビリが行われたが
『1時間休息をとりましょう』
「どうして?やろうよ」
と決して休もうとしない中山雅史に、トレーナーはどうしてそうしなければならないか、どうしてそうしてはいけないか、説明した
『明日は休みましょう』
「休み?どうして?」
『体を休めないとリハビリの効果は上がりません』
「いや、やろう」
『休みましょう』
「やらないよりやったほうがいい。
やろう」
『お願いです。
休んでください』
「僕はサッカーがしたいんだ」
決して休もうとしない中山雅史に、リハビリプログラムをみせ、1つ1つのメニューの理由を説明した。
3週間後、
『明日は休みましょう』
「わかった。やらないほうがいいっていうんなら休む」
そして中山雅史は悔しそうな顔で続けた。
「僕はやれると思うんだけど」
やがてピッチに復帰すると200%の力で走り始めた。
試合翌日、リカバリートレーニングで5000mのジョギングを行うと何人かは4000mでやめたが、中山雅史は10000mを走ろうとしてトレーナーに止められた。
第2ステージで中山雅史は初ハットトリック(1試合3得点)を決め、ジュビロ磐田も優勝した。

ワールドカップフランス大会「ジョホールバルの歓喜 」日本代表ワールドカップ初出場

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1997年、加茂茂が日本代表監督となった。
ワールドカップフランス大会アジア1次予選グループ4、第4戦マカオ戦で三浦知良が6得点を挙げ勝利。
最終予選B組第1戦のウズベキスタン戦でも三浦知良は4得点を挙げ、日本代表は6対3で勝利。
しかしその後、UAE戦(アウェイ)を0対0で引き分け、韓国戦(ホーム)は、1対2で負け、カザフスタン戦(アウェー)はロスタイムに追いつかれ1対1の引き分け。
試合後、加茂周監督は更迭された。
この時点で
1位 韓国 勝ち点13
2位 UAE 勝ち点7
3位 日本 勝ち点6
UAEがカザフスタンに勝てば絶望的だったが負けたため、日本はホーム(国立競技場)でUAEに勝てば2位浮上という希望が生まれた。
前半3分、呂比須が豪快なシュートで先制。
しかし前半のうちに同点に追いつかれ、試合はドローに終わり、自力での予選突破の可能性は消滅した。
一部のサポーターが暴徒化し罵声を浴びせた。
「お前なんてやめちまえ」
「腹を切れ」
イスを投げつけられ応戦する三浦知良の姿が放映された。
その後、1位通過が決まっている韓国とソウルで対戦し2対0で勝利。
カザフスタン戦も5対1。
3勝1敗4分でUAEを抜いて2位となった日本は、アジア地区の第3代表決定戦をイランと戦うことになった。
試合前日の練習で、イランのフォワード、ダエイ選手とアジジ選手が病院に直行し車椅子でホテルに姿を現した。
(おそらく心理的な作戦)
11月16日、日本代表は、中山雅史と三浦知良が2トップを組んだ。
前半40分、中田英寿のスルーパスで中山雅史はゴールキーパーと1対1になった。
そして左足のインサイドで左に流、先制点。
後半1分、アジジに同点弾を決められ、次いでダエイに逆転ゴールを奪われた。
ここで岡田武史監督は中山雅史と中山雅史を下げ、城彰二と呂比須ワグナーを入れた。
交代理由は、試合前のミーティングで
「フリーキックは中田(英寿)、もしくは名波(浩)が蹴る」
と決めていたのに三浦知良が、それを無視して蹴って大きく外したためだったが、このとき
「オレ?」
と三浦知良は自分を指差した。
「ゴン(中山雅史)? 俺? どっち?」
というジェスチャーだったが多くの人は
「まさか俺?」
というように解釈した。
試合は代わって入った城彰二が2点目を叩き出して延長戦へ突入。
最後は中田英寿のパスから野人:岡野雅行が劇的ゴールを決めた
日本代表が初めてワールドカップ本大会出場を決めたこの試合は、
「ジョホールバルの歓喜」
といわれている。
また
「カズからヒデへ」
世代交代が鮮明になった試合でもあった。
帰国後、中山雅史は鹿島アントラーズとのチャンピオンシップで3ゴールを挙げてMVPとなる活躍をみせ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

ハットトリック男

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1998年、1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばした。
日本代表もFIFAワールドカップフランス大会に向け準備を進めた。
中山雅史は、
4月15日 セレッソ大阪戦で5得点
4月18日 サンフレッチェ広島戦で4得点
4月25日 アビスパ福岡戦で4得点
4月29日 コンサドーレ札幌戦で3得点
と4試合連続ハットトリック。
しかし浮かれることはなかった。
「フランスのメンバーに選ばれる保証はない。
津波が引くのは早い。
この調子をワールドカップまでに落としたくない」
実際、代表の最終メンバー争いはし烈を極めた。
スイスでの本大会直前合宿に代表候補25人が招集された。
三浦知良も、これまで何度も読み心の糧にしていた尊敬するモハメド・アリの自伝を持参し参加した。
しかし北澤豪、市川大祐と共に、本大会の出場メンバーには選ばれなかった。
「俺たちがやってきたことは間違いない。
大事なのはこの後だ」
落選翌日、三浦知良は北澤豪と合宿先のスイスからイタリア・ミラノへ移動し一泊20万円を借りてで豪遊した。
(ホテル代金は、後日日本サッカー協会に請求)
そして金髪に染め上げて帰国し成田国際空港で会見を行った。
「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」
(三浦知良)

ワールドカップ日本人初ゴール

 (2196826)

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ワールドカップ本大会初出場を果たした日本代表の平均年齢は25歳。
最年長は、32歳のゴールキーパーの小島伸幸。
次いで、30歳の中山雅史と井原正巳だった。
予選グループリーグで、日本は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同組になった。
総当たり戦を行い上位2チームが決勝トーナメントに進むことができる。
第1戦、アルゼンチン戦は0対1で敗退。
第2戦、クロアチア戦。
前半34分、右サイドでボールを奪いかけ上がった中田英寿が、ディフェンスの裏をとって中央に走りこんだ中山雅史にスルーパス。
中山雅史は見事なトラップでボールを足元に収めた。
最高の舞台で最高のトラップだった。
「もし入っていれば、これ以上のゴールは望めないし、僕のサッカーへの挑戦はもっと早く終わっていたかもしれない」
右足のシュートはゴールキーパーのファインセーブにゴールを阻まれた。
試合は0対1で敗退。
第3戦、ジャマイカ戦。
日本はすでに予選敗退が決まっていたが、中山雅史は目の前の戦いに勝つことを忘れなかった。
セオドア・ウィットモアに2点をとられ、0対2でリードされた後半29分、呂比須ワグナーがヘッドでヘッドで返し、それに中山雅史が右足で合わせゴールを決め1対2に迫った。
ワールドカップ日本人初ゴールにスタジアムは沸いた。
中山雅史は険しい表情で、ボールを拾い上げた呂比須ワグナーと共にセンターサークルに走り、どこまでも勝つ姿勢を貫いた。
その直後、相手選手と接触し、右足腓骨を亀裂骨折したが、顔を歪めながらも試合終了まで走り抜いた。
しかし試合は1対2で負け、日本人代表のワールドカップ初挑戦は、1次リーグ3戦全敗1得点という結果に終わり、中山雅史は松葉杖で帰国した。
2ヵ月後、復帰。
ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったが、Jリーグの後半戦も1試合1点のペースで得点し続けた。
1998年シーズンは、27試合36得点。
得点王、MVP、ベストイレブンなど個人タイトルを総ナメ。
しかしジュビロ磐田はチャンピオンシップで前年の雪辱を期する鹿島アントラーズに敗れ、ーグ優勝を逃した。

「黙らせてやる」

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1999年4月30日、アジア最強クラブを決定するアジアクラブ選手権の決勝で、ジュビロ磐田はイランの強豪クラブ:エステグラル・テヘランと対戦した。
ジュビロ磐田は、成田から30時間かけてテヘランに移動。
標高1300mの希薄な空気と10万人を収容したアザジスタジアムには、機関銃を持った兵士に守られながら入った。
日本からかけつけたジュビロ磐田サポーターもいたが、女人禁制のため女性はスタジアムに入れねかった。
薄暗い通路を抜けるとまぶしいピッチがあった。
歓声、怒号、口笛、爆竹、発煙筒、青色(ジュビロ磐田のユニフォームカラー)に塗られ飛べないよう縛られた鳩、石・・・
さまざまなものが観客席から降ってきたが、コインがヤマハフットボールクラブ社長:荒田忠典の額に当たり出血した。
「やってやろうぜ」
「黙らせてやる」
中山雅史の声が響いた。
ジュビロ磐田は、エステグラル・テヘランの個人技とスピードに押された。
しかし前半、鈴木秀人と中山雅史が得点し2対0.
後半もこの差を守り切って勝利、
アジアチャンピオンは機関銃にガードされながらロッカールームに駆け込んだ。
3時間後、スタジアムを出ると、5日後の鹿島アントラーズ戦のために急いで荷物をまとめた。
テヘランからドイツのフランクフルトに飛び、2時間の乗り継ぎ時間を挟んで日本へ。
約24時間後、5月3日の夜更けに磐田市に帰った。
5月4日、午前中軽く練習してから東京のホテルに移動。
5月5日、国立競技場で鹿島アントラーズと対戦。
鹿島アントラーズは7位。
ジュビロ磐田は首位だったが、
1997年、レギュラーシーズン全敗
1998年、チャンピオンシップも含め全敗。
と対戦成績ではアントラーズに圧倒されていた。
前半37分、鹿島アントラーズ、20歳の小笠原満男がJリーグ初ゴール
後半もアントラーズペースで進んだが、試合残り時間6分、ジュビロ磐田、名波浩がフリーキックを決めて同点。
15分ハーフの延長戦へ入ると両チームとも疲労が濃く足が止まり、仕掛けも崩しもなくなり、ひたすらシュートを打ち、ひたすら跳ね返す展開が続いた。
延長後半6分、腕にキャプテンマークをまいた中山雅史が相手ディフェンダーと競り合ってヘッドで落としたボールを藤田俊哉がシュートし決勝ゴールを決めた。
藤田俊哉はピッチに大の字になり、そこに中山雅史が飛びつき、川口信男と名波浩が続いた。
10日間30000㎞の旅は2つの勝利で終わった。

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6月15日、パラグアイでコパアメリカが開幕された。
日本は、グループリーグで、パラグアイ、ペルー、ボリビアと同組に入った。
そして
ペルー戦 2対3
パラグアイ戦 0対4
ボリビア戦 1対1
と2敗1分で敗退した。
中山雅史は、大会直前のルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術を受けた。
失明寸前の重傷で
「復帰まで1年近くはかかる」
と医師にいわれたが2ヵ月で復帰。
その後も手の骨折などケガに苦しみながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップで2ゴールを挙げジュビロ磐田の制覇に貢献。
11月、Jリーグ選手協会副会長に就任。

 (2197255)

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2000年1月、約1ヵ月のオフが終わり、選手はチームに戻った。
多くの選手は脂肪を増やしていたが、中山雅史も体重が1㎏増えていたが7%だった体脂肪率は0.2%減っていた。
オフの間に脂肪を減らして筋肉の量を増やしていた。
「勝負に100%の状態で臨みたい。
そのためにウォームアップをしっかりやりたい。
いいウォームアップをするためにストレッチを十分にやりたい。
いいウォームアップ、ストレッチをやるためにコンディションを整えておきたい。
天才は感覚で準備の方法を変える。
あるいはまったく準備をしなくても試合に入ることができるが僕にはできない。
だから走る。
コンディションを整え、いいストレッチ、いいウォームアップをして100%で勝負に挑むために、毎日走る。
もしかしたらやり続けることで安心したいのかもしれない。
それが僕の弱さかもしれないとも思うが、でも走らないと気持ちが落ち着かない。
昨日の夜から今日走ることを考えていた。
今日の夜、明日走ることを考える。
明日の終わりに明後日走ることを考える。
疲れていても雨が降っていても走りたくなくても走る」
32歳の中山雅史の体力はまだ上昇していた。
筋力、持久力など、ある特定の能力が突出しているのではなく、ジュビロ磐田が定期的に行う15項目のフィットネステストですべてがチームトップレベルだった。
2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦で、試合開始3分15秒で3点を入れハットトリック。
国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。
2000年シーズンは、故障や、日本代表からも外されるなど不本意なことも多かったが、20得点で2回目のJリーグ得点王となった
2001年、ジュビロ磐田のキャンプ中に行われた持久力テストで、2年目の前田遼一がトップの数字を出した。
すると33歳の中山雅史は、負けん気だけでその数字を上回ってみせた。
そして前年からの好調を続け、日本代表にも復帰した。
ジュビロ磐田は第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位。
しかしチャンピオンシップで鹿島に敗れ、ナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦で敗れ、無冠に終わった。
11月、中山雅史は井原正巳の後を継いで3代目Jリーグ選手協会会長となった。

ワールドカップ日韓大会 日本代表のワールドカップ初勝利

 (2197251)

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2002年、日本代表監督となったフィリップ・トルシエは、35歳の中山雅史を代表候補合宿に招集した。
しかしJリーグ開幕後、わずか1得点と不調の中山雅史は、海外遠征メンバーから外された。
5月14日、ノルウェーとの親善試合で日本代表は0対3で完敗。
5月17日、フィリップ・トルシエ監督は、最終登録メンバーに34歳の中山雅史と31歳の秋田豊を加えることを発表。
こうして中山雅史は、アメリカ大会、フランス大会、日韓大会と4年に1度行われるワールドカップ3大会連続出場を決めた。
背番号は10だった。
中山雅史の普段から高いモチベーションはさらに上がった。
チームの先頭に立って体を動かし声を出し続けた。
たとえ体が痛んでも、いつも
「痛い」
というときの傷みを100とすれば150の傷みでも
「全然大丈夫」
といった。
2002年6月14日、大阪の長居スタジアムで、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs チュニジア戦が行われた。
後半30分、右サイドから市川大祐がセンタリング。
中田英寿がダイビングヘッド。
ボールはゴールキーパーの股間を抜け、日本代表のH組1位での決勝トーナメント進出が決まった。
その瞬間、ウォームアップをしていた中山雅史は拳を握り両腕を突き上げた。
秋田豊、服部年宏、三都主アレサンドロ、福西祟史、西澤明訓、小笠原満男らもウォーミングアップを中断し、翼を広げた中山雅史の下に集まった。
そして輪になって肩を組んで跳びはね、喜びを爆発させた。
ひとしきり騒いでから中山雅史がいった。
「よし、ここからだ。
油断せずいこう」
10秒ほどで輪は解けた。

 (2197253)

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6月9日、横浜国際総合競技場で日本 vs ロシア戦が行われた。
前半は0対0.
後半6分、稲本潤一がゴール。
後半15分、ペナルティエリアにドリブルで迫る稲本潤一にロシアが確信的ファウル。
中田英寿はフリーキックを外した。
そのボールが外れたロシアゴールの裏では、背番号18をつけた中山雅史がウォーミングアップをしていた。
10分後、ベンチに呼び戻され、トルシエ監督は中山雅史に耳打ちされた。
「守るために入ってもらうんじゃない。
相手の裏を狙ってほしい」
後半27分、中山雅史がピッチに入った。
ロシアディフェンダーに激しくプレスをかけコーナーキックを獲得。
後半46分、後方からのスライディングタックルで中山雅史に警告。
直後、レフリーのホイッスルが試合終了。
日本代表のワールドカップ初勝利が決まった。
「ナカヤマはこのチームのシンボルだ。
誰もが彼に畏敬の念を抱いていた。
ピッチに立てば仲間たちの闘争心を掻き立て、練習でもいいムードをつくってチームをいい方向へ導いてくれた。
彼が他の選手に与えた影響は計り知れないほど大きい。
ナカヤマは不可欠な存在だと認識させられた」
(フィリップ・トルシエ)

やるしかない。絶対に下を向かない。

 (2197457)

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2002年シーズン、16得点でリーグ2位の中山雅史とリーグ得点王の高原直泰のコンビはゴールを量産し、ジュビロ磐田はJリーグ史上初の両ステージ制覇で完全優勝した。
2003年、中山雅史はJリーグ開幕前日の左大腿の裂傷を皮切りに重いケガが続いた。
6月には下腹部にそれまで経験したすべての痛みを上回る激痛に見舞われ、1歩も動けなうなり車椅子で病院に運ばれた。
10年ぶりのグローインペインシンドローム(鼠径部周辺痛症候群)だった。
結局このシーズンはほとんどをリハビリに費やした。
長年の過負荷のリバウンドだった。
「1度、ゆっくり休めば・・・・」
そう勧められても中山雅史はサッカーから離れることを嫌った。
「サッカーをやるためにはリハビリをやるしかない」
「やるしかない。
がんばるぞ」
「今悪いということはこれから必ず良くなるということだ」
「絶対治る」
と絶対に下を向かなかった。
サッカーのために100%の努力を続ける。
当たり前のことだが実は1番難しいことを中山雅史は継続し続けた。
半年のリハビリの末、復帰。
復帰初戦、東京ヴェルディ1969戦で中山雅史がユニホーム姿になると場内が騒然とした。
「あれは異様な雰囲気だった」
(東京ヴェルディ1969DF:米山篤志)
「当初はこの試合では起用しないつもりだった。
エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」
(ジュビロ磐田の柳下正明監督)
中山雅史投入直後のコーナーキックで同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利した。
ジュビロ磐田は、横浜F・マリノスに敗れリーグ優勝は逃したが、天皇杯ではヤマハ発動機時代以来の優勝を果たした。

 (2197245)

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2007年、内山篤がジュビロ磐田の監督となった。
内山篤はいつも誰よりも早くクラブハウスに入った。
そして玄関を通る選手を監督室のモニター越しにみていたが、自分の次にやってくるのはいつも中山雅史だった。
40歳の中山雅史は出会った頃とまったく同じだった。
「もっとうまくなりたい」
といつも全力でプレーしていた。
「ゴンの中には、常に100%でやり続けたからここまで来られた、やり続ければもっとよくなるという思いがある。
だからどうすればやりすぎを抑えられるのか、よく頭を抱えました。
全然抑えてくれないんだ。
わかりましたと口ではいうけれど・・・」
(内山篤)
8時半、クラブハウスに入った中山雅史はトレーナーによるコンディションチェック、ストレッチ、ホットパック、マッサージを受け、練習の準備をする。
そして練習が終わるとすぐにアイシング。
昼食を挟み、15時、午後の練習のに備えて再びストレッチ、ホットパック、マッサージ。
誰よりも早くグラウンドに入り、誰よりも前を走り、誰よりも懸命に練習した。
練習後、治療とマッサージを受けると21時を過ぎた。

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1994〜2009年まで治療のため100回以上、戦線を離脱。
腰痛、下肢肉離れ、グローイングペインシンドローム(鼠径部周辺痛症候群)、半月板損傷、膝内側側副靱帯損傷、両足首捻挫、眼窩底骨折、肩脱臼、指骨折、肋骨骨折、腓骨亀裂骨折、無数の切り傷・・・・、
サッカーで考えられるほとんどすべてのケガをして、重度のものも多かった。
無事なのは足の甲と第5中足骨と前十字靱帯くらい。
特に大きな問題は両膝だった。
X気味の脚は、両膝とも大腿骨と下腿骨の間でクッションの役割を果たす半月板がほとんどなく、大腿骨と下腿骨の先端を覆う軟骨もほとんどなかった。
そのため骨と骨が直にぶつかり、激痛が走り、炎症を起こし腫れた。
普通ならば身動きが取れないほどの痛みを伴うケガをしていても強行出場し、いつもと同じくリスクを求めるかのように激しくプレーし多くの試合で得点を挙げた。
そしてまたケガをする、
ケガを治すためには休むしかないが、決して休もうとしない。
ケガが治りきらないうちにプレーするため、古いケガが新しいケガを生んで重なった。
それでも休もうとしなかった。
背筋が肉離れを起こし、走ることも跳ぶこともできず、前屈みでしか動けなくなっても
「明日は筋が切れてもやるよ」
といった。
そして
「いやすでに切れてます」
といわれた。
安静ししていれば2、3週間で治るが無理をすれば2ヵ月かかるかもしれないという。
肉離れは筋肉が部分的に断裂している状態だが、強い負荷を加えると決定的に切れてしまうかもしれない。
しかしこのときも中山雅史の意志は恐怖とメディカルスタッフを振り切った。
「とにかく監督に行けといわれたら行く。
大丈夫だろう?」

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5月28日、中山雅史はに2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り名誉会長に就任。
9月15日、ジュビロ磐田 vs 大宮アルディージャ。
中山雅史はここまで24試合中10試合に出場し、先発4、途中出場6、フル出場0。
前回、後半44分に交代出場して以来、7試合出場がなかった。
この試合、ジュビロ磐田は、後半26分と40分に得点し2対0。
終了間際、内山篤監督はレフリーに選手交代を告げた。
「ゲームをしっかり終わらせてほしい」
監督の指示に中山雅史はうなずいた。
84日ぶりの出場機会に与えられた時間は36秒だった。
味方の頭に当たって転がるボールを中山雅史は猛追。
ラインギリギリで追いつき左足でクリア。
大宮アルディージャのキーパーがそのボールを蹴り返した。
直後、大宮アルディージャのコーナーキックをジュビロ磐田がクリア。
ボールはセンターラインを越えて飛んでいった。
中山雅史は追った。
ディフェンダーはゴールキーパーのみ。
加速する中山雅史の目の前にボールが落ちた。
このままドリブルでいけばシュートを打てる。
期待が膨らんだ瞬間、試合終了のホイッスルが鳴った。
中山雅史はボールを両手でつかんで悔しそうにピッチに投げつけた。
2008年5月25日、ナビスコカップ清水戦後半43分、コーナーキックをヘディングで決めた。
この得点が中山雅史が挙げた最後の得点となっている。

42歳 戦力外通告

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2009年夏、ジュビロ磐田は中山雅史に来シーズンは契約を更新しないことを告げ、フロントスタッフ入りを打診した。
42歳の中山雅史はあくまで選手であることを望み、フロント入りをキッパリ断り、かつプレーで戦力外通告を覆そうとした。
2009年11月28日、ジュビロ磐田の残る試合は今日と明日の2ゲームのみ。
試合当日の練習は10分走×2本とミニゲームだった。
中山雅史は、文句はいわないが、話したり笑ったりしながらの練習は嫌いだった。
「今日はキツかったなあ」
そう思いながら夕暮れに寝転んぶのが大好きだった。
この日も勢いよく芝生を蹴ってスタートし、アッという間に抜け出し、グループは後方に置き去りになった。
「おっ」
前方に本田慎之助の背中を発見。
23歳下の本田慎之助もグループには加わらず1人で走っていた。
中山雅史は本田慎之助を抜き去り、本田慎之助は中山雅史を追いかけた。
6周し終えたところで10分走の1本目が終了。
中山雅史は歩きながら呼吸を整えた。
インターバル中でも話したり笑ったりしているグループには近づかなかった。
2本目が始まると、また最初から飛び出した。
本田慎之助が追った。
6週目中盤で残り時間がわずかになった。
どうしても1本目より1周多く走りたかった。
中山雅史は振り返り本田慎之助にいった。
「ラストもう1周いくぞ!」
「はい」
スパートした中山雅史は7周を走り切った。
少し遅れて本田慎之助もゴールした。
「中山さんの前を走っちゃいけないっていうことですね」
「それはそうだよ」

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14時、ジュビロ磐田 vs サンフレッチェ広島戦が開始。
中山雅史はベンチに座った。
前半22分、サンフレッチェ広島の佐藤寿人が先制点。
後半7分、ジュビロ磐田のイ・グノが決定的チャンスを逃す。
後半34分、船谷圭祐に代わって村井慎二が出場。
直後、中山雅史がウォームアップ開始。
後半35分、中山雅史がベンチの選手1人1人とハイタッチし、柳下正明とは握手を交わした。
そしてラインの外側に立ち右手でユニフォームの心臓付近をつかみ、両拳で胸を叩いた。
後半37分、イ・グノと中山雅史が交代。
後半40分、味方のクロスを頭で合わしたがボールはバーの上へ。
後半48分、時間は容赦なく過ぎ、ゲーム終了のホイッスルが鳴った。
0対1。
ジュビロ磐田は負けた。
試合後行われたセレモニーで壇上に上がった中山雅史は四方に向かって丁寧に礼をした。
「俺がジュビロの中山だ!
サンキューサンキューサンキュー!」
2009年11月29日、前日同様、中山雅史は10分走を単独行で終えた。
前を走る選手も後を追う選手もいなかった。
「ありがとうございました」
シャワーを浴びて体のメンテナンスを終えクラブハウスを出た中山雅史は、いつものようにグランドに頭を下げた。
ヴィッセル神戸との最終戦で出場機会はなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え1万5000人の拍手を浴びながら最後の試合を終えた。
こうして20年間在籍したジュビロ磐田を退団した。
「先に何が待ち受けていようと走り続け維持を張り通すだけだ」

トライアウトに参加

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2009年12月10日、大阪の長居陸上競技場で日本プロサッカー選手会と日本プロサッカーリーグによるJリーグ合同トライアウトが行われ、所属チームから戦力外通告を受け、新しい所属先が決まらず、それでもどうしてもサッカーが続けたい選手が52人集まった。
それを各チームのスカウトや関係者173人が見守った。
中山雅史に対しては、すでにいくつかのチームが獲得を表明していたためトライアウトに参加する必要はなかったが、自身がプロサッカー選手会会長時代に
「戦力外になった選手には各チームに出向き練習に参加するしか新しいチームを探す方法がない。
野球のように選手と関係者が1ヵ所に集うトライアウトを行うべきではないか」
と提案し実現させたことだったし、1選手として公平に勝負し、スカウトや関係者にい評価をしてもらいたかった。
集まった選手はポジションなどを考慮しながら、ランダムにチーム分けされ、前半15分、後半15分の紅白戦が行われた。
初めてチームとなって組む同士、チームプレーは難しかったが、サッカーへの思いを込めてガチンコでぶつかり合った。
中山雅史は他の選手にとって自分をアピールするために最高の敵だった。
積極的に絡み挑んでいった。

生まれて初めて体が走ることを拒絶

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2009年12月24日、ロアッソ熊本(J2)、横浜FC(J2)、コンサドーレ札幌(J2)、FC町田ゼルビア(JFL)、V・ファーレン長崎(JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが中山雅史獲得の意思を表明。
中山雅史は、年俸提示は最も低いが
「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」
施設や医療体制が充実しているコンサドーレ札幌への移籍を決断した。
「現役生活が1番幸せ。
やめたりあきらめたりはいつでもできる。
無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」
2010年、中山雅史はコンサドーレ札幌に入団。
J2で12試合に出場し無得点。
11月に両膝を手術。
2011年、昨年の手術後、両膝は悪化の一途をたどった。
2011年7月、痛み止めの飲み薬が効かなくなり、直接膝に注射を打つようになった。
その効き目も、最初は3日持ったが。やがて2日に、そして1日になった。
9月、練習前のウォームアップの最中、膝が痛み動けなくなる。
初めて経験する痛みで中山雅史は崩れるように芝生に倒れこんだ。
2週間安静にしチームに復帰したが、1歩踏み出すごとにうめき声が出た。
ウォームアップを兼ねたランニングは何とか走り切ったが、続く1000m走はどうにもならなかった。
(ダメだ)
生まれて初めて身体が走ることを拒絶した。

「このまま運動を続けると骨が壊死するかもしれません」

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病院に行くと
「このまま運動を続けると骨が壊死するかもしれません」
といわれた。
膝の半月板と軟骨がほとんどないため大腿骨と下腿骨が直接ぶつかって重度の骨挫傷を起こしていた。
ドクターストップがかかって走ることをやめても痛みは消えず、なかなか寝つけず、立っているだけでフラつき、階段はまともに下りることができなかった。
東北の大学病院でMRI検査を受けると
「患者の名前と年齢を伏せて、この画像を10人の整形外科医にみせたら、おそらく9人は人工関節を勧めるでしょう。
この状態では手の施しようが・・・」
医師は声をひそめた。
12月、軟骨再生治療を行っている大学病院でへいった。
「まだ臨床研究中で、膝の軟骨がある程度残っていることが再生の条件です。
再生には1年かかります」
「両脚同時に再生できますか?」
「それはできません。
それから再生された軟骨の強度は日常生活に耐えられる程度です」
治療に2年もかけられないし、求めているのはサッカーをやるための軟骨だった。

 (2197223)

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軟骨再生は断念した。
以後、リハビリに取り組んだ。
もう膝が元に戻ることはないが、目標はプレーできるようになることだった。
チームメイトがピッチでサッカーをしているのをみながら1日中1人で自転車をこぎ続けた。
問題はX脚だと考えられ、それを矯正するために歩き方、足裏の接地の仕方を練習した。
足裏の接地を変えるためには、体の使い方を変える必要があった。
44年間続けてきた歩き方を変えるというのは、簡単そうで実はすごく大変なことで、うんざりするほどの反復練習を行わなければいけなかった。
膝の痛みは続き、朝目覚めてもすぐに起き上がることはできなかった。
床に置いたベッドマットの端に座り、10本の指を床をつかむように動かし足裏をほぐす。
そして壁に向かって四つん這いになって、椅子の上に膝立ちになって、後ずさりするようにゆっくり脚を伸ばして立ち上がった。
痛みを迂回するための儀式だが、それでも完全に避けることはできない。
立ち上がると、膝が絶対痛いので、いつも勇気が必要だった。
ウォーキングからジョギングへ。
ジョギングからスプリントへ。
膝に負担にならない歩き方と走り方に変えて距離と時間を少しずつ増やしていった。
新しい歩き方に取り組んで5ヵ月、20mほどならトップスピードで走れるようになった。
しかしブレーキをかけたり方向を変えたりターンすることはできなかった。
2011年シーズン、中山雅史は公式戦無出場に終わったが現役続行の意志を示した。
またコンサドーレ札幌はJ1に昇格した。
2012年3月29日、中山雅史は、東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」でファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された。
2012年11月24日、サンフレッチェ広島がリーグ初優勝を決めたこの日、ホーム最終戦でコンサドーレ札幌は横浜F・マリノスと対戦。
試合終了直前、中山雅史が交代出場。
試合前に痛み止めを6本打った。
それは本来あり得ない量だった。
痛みは体が発するシグナルなので、無理に痛みを抑え過ぎると、気づかずに限界を超えてしまい、かえって危険なので、痛み止めの注射を打つのはできるだけ避けなければならない。
1週間後のアルビレックス新潟との最終戦をあきらめたわけではなかったが、この試合が最後になるかもしれないとも思っていた。
そして1分間プレーし、J1最年長出場記録を45歳2ヵ月1日に更新。
2年ぶり、そして2012シーズン唯一の試合出場だった。

「隙あらば・・」

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2012年12月4日、中山雅史が会見を開いた。
「今シーズンの最終戦まではとにかく自分のできることを精一杯、挑戦しようと思ってやってきましたけれど、なかなか難しいとも感じてました。
そうしたこともあり、やはり退いた方がいいのかなという思いに至りました。
ただそうは思っても、この会見場に来るまでも、やめなきゃいけないのかなとか、何とか続けられないかなという思いも沸き上がりました。
まだ未練タラタラです。
これでリハビリを終えるつもりもないですし、それでまたバリバリになったらカムバックするかもしれません。
そのときにはまた会見を開くので皆さんまた来てくれますか?」
中山雅史は、人々に感謝の気持ちを伝えたが、最後まで頑なに「引退」は口にしなかった。
また若い世代について、以前からサッカーの技術や理解度などのレベルの高さには素直に感心していたが、
「今のサッカー界には若くてうまい選手が多いですから、もっともっと強くなってほしいと思います」
と「上手いが弱い」という現在の日本の競技スポーツが抱える問題を示唆した。
しかし誰もが「復帰を目指す」というはリップサービスだと思った。
実際、会見後、マネジメント会社ARSと契約し、バラエティ番組、スポーツ番組、ニュース番組、サッカー解説者、全国高校女子サッカー選手権大会のイメージキャラクター、自分のラジオ番組、ゲーム『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演しゲーム内にも登場など多方面で活躍した。
それだけ忙しければ、トレーニングどころじゃないだろう、すでに現役復帰はあきらめているだろうと思われた。
ところが中山雅史は忙しい合間を縫って水面下で体を鍛えていた。
「隙あらば復帰してみせる」

事務所をジム所化

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2013年、中山雅史は東京に小さな事務所を構えた。
最初は準備、移動、仕事で1日の大半が消えた。
やがて札幌で使っていた自転車トローラーが、浜松から酸素カプセルが事務所の一角に運び入れられた。
その後も限られた時間で自分を鍛えるための事務所のジム所化は進行していった。
中山雅史は、できるだけ1日の最初にトレーニングを入れた。
オフィスの一角で黙々と自転車を漕ぎ、筋力トレーニング。
自転車で外に出たり、皇居を走ることもあった。
「体はキツいがやり始めると、やってやろうとギラギラした気持ちが蘇ってきた。
それに比べて今はどうなのか?
落ち着いてしまっていないか?
もっといけるだろう。
いかなければダメだ」
仕事でトレーニングができないと落ち着かず、仕事がない日もジム所にいってトレーニング。
トレーニング後は、階段の踊り場に植木鉢用の大きな受け皿を出し、お湯を入れて汗を流し、近くのコインランドリーで洗濯して帰った。
動いた後はリバウンドで痛みが出るが、走り方を変えたおかげで膝はよくなった。

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解説者としてサッカーについて話すことが増えた。
「すでに興味を持っている人はもちろん初めてみる人にも「サッカーって面白いんだな」と感じてもらいたい。
これはどうしてだろう、あれはなぜだろうと思っているところに少しでも参考になるような言葉を届けたい。
より多くの人にその魅力を伝えるためにもっと視野を広げたい。
量より質というが質を上げるためには量が必要だ。
今の僕に必要なのはもっとたくさん試合をみることだと思う」

 (2197219)

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中学生の試合で初めて監督を経験した。
「1日限りの出会いなので1人1人のプレーの特徴や性格はわからない。
戦術もそれまでやってきたことをやるしかない。
そういう状況なので基本的なことしかいえなかったが、それでもみんな真剣なまなざしで応えてくれた。
そして試合に勝った。
こういう喜びもあるのかと思った」
指導ライセンスの取得などプロの監督になるための準備もしているが、
「監督はプレーヤーの延長線上ではなく、川を挟んで向こう側に広がる世界だ。
機会があれば渡ってみたい。
もしその世界に喜びを感じたらもう第1線には戻ることはできないだろう。
そう思うと少しさびしい気持ちもする」
また他のスポーツのトップ選手と話す機会も増えた。
中にはすべてやり切り、まったく未練なく清々しい気持ちで次のステージに挑戦している人もいた。
「僕はやり切れていない。
だから次もプレーヤーしかない。
トレーニング強度を上げてコンディションを整え、いつか訪れるかもしれないチャンスをつかめるようにしておきたい」
中山雅史は、毎日のように、小さなオフィスの一角で、黙々と、トレーニングを続けた。

臀筋強化 足首と股関節の柔軟性拡大 膝の痛みを無くす

 (2197214)

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2014年7月、中山雅史は、中村和睦トレーナーと契約した。
トレーナーといっても、レベルや得意分野はさまざまだが、中村和睦トレーナーは、総合誌で特集されるなどスポーツ医学に精通し、これまで大きな故障で選手生命が脅かされた選手を何人も救ってきた。
中村和睦トレーナーは、知人を通じてすぐに中山雅史に会いリハビリを任せて欲しいといった。
その後、何度も話し合いながら中山雅史は任せることを決めた。
まず中村和睦トレーナーは膝の状態を確認した。
想像以上にボロボロだった。
そして
「膝の痛みを無くすために膝の負担をどこまで減らすことができるか」
ということがテーマとなった。
まずお尻、臀部の筋肉の強化。
中山雅史は、大腿は強かったが、臀部の筋力は弱かった。
そこを強化できれば膝への負担を大きく軽減できると大量の筋力強化トレーニングが行われた。
中村和睦トレーナーは負荷強度や回数、トレーニングフォーム、力の入れ方なども細かく管理した。
しかしお尻の筋力だけでは、うしても補えない動きがあった。
それが膝の屈伸だった。
膝に直接負担をかけると痛みが出てしまう。
中村和睦トレーナーは、
凝り固まった両脚のすべての筋肉や腱、靭帯をほぐして柔らかくすること
足首と股関節の可動域を拡げること
を目指した。
マッサージやストレッチは、スペシャリストが呼ばれ、新たにチームGONに加入した。
トレーニングを始めて1年。
実戦的な練習が出来るまでになった。
練習前には、膝にテーピングを施し、状態を確認しながら練習を進めた。
1年前は歩くだけで膝に激痛が走った中山雅史は走りながらボールを扱うまで回復した。
そして実戦練習を始めて1ヵ月後、チャリティーマッチに出場。
およそ30分、全力で走り切った。
その後もトレーニングを行いながら実戦的練習のメニューを増やしていった。
1歩進んでは2歩後退する。
決して楽ではないが着実に前に進んでいった。

48歳、現役復帰

 (2196894)

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2015年7月、
「テストを受けてみないか?」
チャリティーマッチで指揮をしていた山本昌邦(元ジュビロ磐田監督・コーチ、元オリンピック代表監督)が中山雅史に声をかけた。
2015年9月5日、中山雅史は、テストを受けるため山本昌邦が会長を務める「アスルクラロ沼津」がある静岡県沼津にいった。
テストは30分ハーフの紅白戦。
中山雅史は、1時間、プロを目指す若手選手と共に全力でボールを追った。
9日後、中山雅史の入団が発表された。
あの会見から2年9ヵ月後、中山雅史は、シーズン途中のJFLのアスルクラロ沼津のチーム練習に参加し、軽快な動きをみせた。
そして再びユニフォームを身にまとった48歳は、現役に復帰することを宣言した。
現在、4部リーグに相当するJFLで戦い、来シーズンでのJ3参入を目指すアスルクラロ沼津は、30歳のキャプテンの尾崎瑛一郎が最年長、最年少の平岡将豪は20歳で中山雅史の半分以下という若いチーム。
全員がアマチュアで午前中、練習を行って、午後は各々職場に向かう。
中山雅史は、10月3日のソニー仙台戦での現役復帰を目標に、実戦に向けてコンディションを上げていった。
10月11日、その目標は叶わなかったが古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰。
中山雅史加入後、アスルクラロ沼津の試合は観客が増えた。
中山雅史は、サッカー解説者などの仕事も行いながら、ベンチ入りしない試合でも駆けつけてチームを鼓舞した。
2015年11月22日、サンフレッチェ広島の佐藤寿人がJ1通算157ゴールを決めて、7年前ん中山雅史の記録に並んだ。
それを中山雅史はスタンドで目撃し
「現時点で追いつかれただけですからね。
ここから引き離していけるように頑張れればいい。
素晴らしいゴールを間近で見させていただき、勉強になりました。
ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」
とコメントした。
2016年、このシーズンも中山雅史の公式戦出場は無かったが、アスルクラロ沼津はJFLで3位となり悲願のJリーグ入りを決定した。

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2019年、52歳の中山雅史はJ3のアスルクラロ沼津で選手としてサッカーを続けながら、サッカー解説者やタレントとして活躍。
アスルクラロ沼津に入団後、公式戦出場はまだないが、日々、練習場で汗を流している。
またJFA(日本サッカー協会)公認S級コーチの資格を取得するためのカリキュラムは終えているものの、取得のために必要な指導実績が足りないことから選手兼任コーチとしてアスルクラロ沼津のU-18のコーチとなった。
選手、指導者、メディア活動の3足の草鞋を履いている。
2020年、JFA(日本サッカー協会)は、アスルクラロ沼津FW中山雅史がS級コーチライセンスの認定を受けたと報告。
現役Jリーガーの取得は初めて。
中山雅史はJクラブの監督を務める資格を得た。

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