おもしろローカル線の旅64〜〜JR九州・日田彦山線(福岡県・大分県)〜〜

 

本サイトでは「おもしろローカル線の旅」という切り口で各地のローカル線を紹介してきた。だが今回はとても “切ない旅”の記録となる。福岡県の城野駅と大分県の夜明駅を結ぶ日田彦山線。3年前の豪雨災害で、一部区間が運休していたが、運休区間のBRT化がほぼ決まった。

 

筆者は小社鉄道ムック誌取材のために、かつて同地を訪れていた。路線の記録をたどり、今後もう永遠に出会えなくなった風景を振り返ってみたい。

*写真は一部をのぞき2013年7月21日撮影

 

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↑重厚な造りのトンネルをくぐる日田彦山線の普通列車。採銅所駅近くでの撮影。レトロな風景を気軽に楽しむことができる

 

【日田彦山線の記録①】ふと脳裏に蘇っためがね橋の雄姿

雲一つない青空のなか、日田彦山線の名物、めがね橋をキハ47形気動車が渡っていく。不通となっていた区間のBRT化がほぼ決まったという一報に接した時に、そんな風景が脳裏にふと蘇った。

 

日田彦山線の概略を見ておこう。

路線と距離 JR九州・日田彦山線/城野駅(じょうのえき)〜夜明駅(よあけえき)68.7km *全線単線・非電化
開業 1896(明治29)年2月5日、豊州鉄道(ほうしゅうてつどう)が伊田駅(現・田川伊田駅)〜後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)間を延伸開業、1956(昭和31)年3月15日、彦山駅(ひこさんえき)〜大行司駅(だいぎょうじえき)間の開業で、日田彦山線が全通
駅数 24駅(起終点駅を含む)

 

↑筑前岩屋駅〜大行司駅間に架かる3つのめがね橋の一つ栗木野橋りょう(詳細後述)。雲一つない青空の中を気動車が通り過ぎた

 

日田彦山線は68.7kmほどの路線で、災害で不通となる直前には次のような列車の運行が行われていた。起点となる城野駅側の列車の発着はすべて小倉駅からで、日田駅行直通列車が1日に6本、日田駅発の小倉駅行が1日に5本ほど走った。小倉駅発の列車は、途中の田川後藤寺駅行、もしくは添田駅(そえだえき)行列車が多く、添田駅〜夜明駅間は日中の列車はほぼ2時間おきという閑散区間だった。

 

2017年7月5日〜6日にかけて降り続いた九州北部豪雨の影響をこの閑散区間がもろに受けたのである。

 

【日田彦山線の記録②】豪雨災害により路線63か所に被害が

添田駅〜夜明駅間は、山岳路線といった険しい地形が続く。添田駅からは線路沿いに彦山川が流れ、また路線が川を跨いでいたが、豪雨災害により複数の橋りょうが変形、もしくは傾いてしまった。

 

路線は彦山駅〜筑前岩屋駅間にある釈迦岳トンネル(4379m)がピークとなる。この釈迦岳トンネルへ土砂が流入、大行司駅は駅舎が倒壊、駅の構内の路盤崩壊など被害は甚大だった。JR九州によると、日田彦山線の被害箇所は、実に63か所に及んだという。

 

以降、添田駅〜夜明駅29.2km間の列車は運休となり、代行バスでの運行が続く。日田彦山線の列車は、久大本線の日田駅まで乗入れていた。この久大本線も三岡駅〜日田駅間にかかる花月川橋りょうが流失した。こちらの区間の復旧も手間取ったが、ちょうど1年後の7月14日に橋りょうの架け替えにより復旧した。一方、日田彦山線の復旧は、と見ると……。

日田彦山線の被害は甚大で、手付かずの状態となっていた。

 

不通となってから、この3年間、JR九州と地元自治体との協議が進められた。JR九州からは、昨年の4月に3つの復旧案が提示された。

 

(1)地元が年間1.6億円を負担することにより鉄道路線として復旧させる。

(2)彦山駅〜筑前岩屋駅間7.9kmを専用道として整備してBRT(バス・ラピッド・トランジットの略)路線化する。

(3)普通のバスを走らせる

 

不通区間は、福岡県添田町、東峰村(とうほうむら)、大分県日田市の3市町村を走っていた。地元からの負担は難しいとして、負担なしで復旧を求める声があがっていた。JR九州の鉄道路線は赤字区間が多い。国鉄の分割民営化以降、JR九州は経営の多角化を進めることにより、ようやく収支を保っている状況である。鉄道路線を復旧させるには、地元負担が欠かせないとの姿勢を崩さなかった。

 

最終的に福岡県の小川 洋知事が動いた。鉄道路線の復旧を強く訴えていた東峰村を5月16日に訪問し、「力が及ばなかった」と陳謝、復旧を断念することを伝えた。BRT専用道の整備を選択するとともに、専用道の距離を延ばす復旧案を提案したことを伝え、村も容認することを表明した。まさに苦渋の決断をしたわけである。

【日田彦山線の記録③】路線の全通は高度成長期に入ってから

誠に残念な結果になってしまったが、ここからは日田彦山線の取材材料を元に全線を乗車したころの様子を振り返ってみよう。

 

日田彦山線の歴史は複雑だ。日田彦山線が走る九州の北部地域は、もともと石炭や石灰石の採掘用に設けられた鉄道路線が多い。これらの路線を継承したのが日田彦山線なのである。そうした足跡が路線の各所に残る。

 

路線の成り立ちを触れておきたい。歴史は路線の中間部にあたる田川伊田駅〜田川後藤寺駅間が1896(明治29)年2月5日に開業したことに始まる。路線は日豊本線の行橋駅(ゆくはしえき)から、後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)まで延ばされたその一部だった。現在の平成筑豊鉄道田川線にあたる。

 

その後、小倉鉄道という鉄道会社が東小倉駅(鹿児島本線)を起点に、伊田駅、添田駅を目指す路線の敷設を行う。同路線は1915(大正4)年4月1日に開業した。このように路線の敷設が活発に行われていた背景には、国の富国強兵政策があった。同路線の北には北九州の重工業地帯が広がっていた。製鉄工場などの生産力を高めるためにも、近くに材料や燃料の供給地が必要だった。開業した同路線からは積み荷を満載した貨物列車が頻繁に北九州へ向けて走った。

↑呼野駅(よぶのえき)は峠の手前にあり1983年までスイッチバック駅だった。筆者が訪れた時には線路やホームの跡が残されていた

 

↑採銅所駅の隣接地に残っていた旧貨物ホーム。貨物列車の運行が主体だった路線でもあり、こうした広い構内を持つ駅が多かった

 

↑普通列車が採銅所駅を発車する。かつては駅の近くでは銅の採掘が行われていた。採掘の歴史は古く、奈良時代からとされている

 

添田駅(現・西添田駅)までは明治・大正期に路線が延ばされた。ところが、添田駅〜夜明駅間の路線づくりは以降、多少の時間があく。1937(昭和12)年に夜明駅〜宝珠山駅(ほうしゅやまえき)が開業、1942(昭和17)年には西添田駅〜彦山駅まで開業する。つまり南北から徐々に、路線が延ばされていったわけである。

 

太平洋戦争をはさみ、1946(昭和21)年9月20日には宝珠山駅〜大行司駅(だいぎょうじえき)間が開業する。彦山駅〜大行司駅間が最後まで未開通区間として残っていたが、1956(昭和31)年3月15日に開業した。そして1本の線路としてつながる。1960(昭和35)年に日田彦山線という路線名に改称された。

 

日田彦山線は、一部区間が開業してから実に60年以上の年月を経て、全線が開通したわけである。

 

【日田彦山線の記録④】石炭産出で活況となったものの……

日田彦山線の歴史をたどると、やはり採炭地を走っていたことが大きい。路線が通る田川市(たがわし)はその代表格だ。

 

田川は炭坑節の発祥の地でもある。田川伊田駅の南側には、三井田川鉱業所があった。鉱業所は現在、田川市石炭・歴史博物館として姿を変えている。同鉱業所は日本最大の出炭量を誇った筑豊炭田の中でも、最大規模の炭鉱だった。鉱業所内の伊田竪坑は1910(明治43)年に竣工したもので、日本三大竪坑の一つとされた。今、坑跡は国の指定史跡になっている。

 

こうした採炭量を誇った田川鉱業所も1964(昭和39)年に閉山されてしまう。つまり日田彦山線が全線開業したころには、すでに石炭の輸送は下火を迎えつつあり、路線の使命も貨物輸送よりも、旅客輸送に大きく転換が迫られていた時期だったことが分かる。

↑田川市石炭・歴史博物館のシンボル「二本煙突」と保存された9600形蒸気機関車。59864号機で、同機は筑豊本線のSLさよなら列車を牽引した

 

【日田彦山線の記録⑤】英彦山が沿線最大の観光ポイントだった

添田駅までは石炭や石灰石の輸送用に敷かれた路線だった。添田駅以南は路線の趣ががらりと変わる。筑豊地方と久大本線が通る日田地方を結ぶために建設された山岳路線となる。また修験の山、英彦山への参拝客の輸送を目的としていた。要は添田駅を境に、路線の成り立ちが全く異なるのである。

 

そして今回、鉄道が走らなくなるのは、この山岳地帯である。山なかの路線ということもあり、車窓は魅力に富んでいた。写真を中心に、不通となった区間をたどってみよう。まずは英彦山の玄関口、彦山駅から。

↑彦山駅のホームに入線する小倉駅行列車。英彦山神宮を模した駅舎(左上)。駅舎内には放送室などの施設もあり充実していた

 

彦山駅の木造駅舎は英彦山神社を模しており、朱塗りの大屋根と林立する柱が印象的だった。英彦山(ひこさん)は大峰山(奈良県)、羽黒山(山形県)と並ぶ日本三大修験の山である。駅前にはレトロな案内板が掲げられ、英彦山の全景ガイドを見ることができた。駅の正面にはヤマメや鯉料理などを売りにした“駅前食堂”がある。日田彦山線ではもっとも行楽色が強い駅だった。

 

当時、降り立った駅の中では、彦山駅の乗降客は沿線で最も多かった。多かったとはいっても数人であったのだが。

【日田彦山線の記録⑥】不通区間に名物めがね橋が連なっていた

訪れた当時の乗車記をひも解いてみよう。

 

彦山駅を過ぎると、いよいよ分水嶺を越える。勾配区間が続き、全長4,380mの釈迦岳トンネルへ。抜けた先は、棚田の風景で知られる東峰村である

(学研プラス刊「九州極上列車を楽しむ!」より)

 

東峰村の棚田はみごとだった。トンネルとトンネルの合間から、眼下に棚田が望めた。標高差160mの斜面に約400枚の棚田が並んだ。農林水産省が選定する「日本棚田百選」にも選ばれている。この棚田が豪雨の被害を受けた。そしてこの地を列車が走らなくなった。

↑栗木野橋りょうは3つの橋の中で最も雄大な姿を誇る。長さは71m。橋の下には棚田が広がっていた

 

棚田を見下ろす間に列車は3つの橋を渡っていた。地元では「めがね橋」とよび親しんできたコンクリート製のアーチ橋だ。この橋りょうはみな、太平洋戦争の直前の1938(昭和13)年に着工されたもの。当時は日中戦争が始まった時期ということもあり、鉄需要がひっ迫していた。そのため、鉄を満足に使うことができなかった。3つの橋はそのため「無筋コンクリート充腹アーチ橋」と呼ぶ構造をしている。

 

つまり鉄を使わない弱さをアーチ構造の技術により補っていたわけである。その特殊な構造から栗木野橋りょうと宝珠山橋りょうの2つの橋は現在、経済産業省の近代化産業遺産に指定されている。3つの橋はみな曲線構造が見事で美しかった。上空を見上げると、コンクリートのわずかなすき間から、草木がにょきりと生えだし、アーチの下には大きな蜂の巣がぶらさがっていた。

↑宝珠山橋りょうは長さ約80mと3つ橋りょうのうちで最も長い。橋のすぐ近くには民家や棚田が連なっていた

 

↑第二大行司橋りょうは長さ約55m。4連アーチ橋だが、樹木におおわれていて全貌は見通すことができない

 

実は3つの橋は太平洋戦争前に完成していたもの、その先の釈迦岳トンネルの工事に手間がかかり、3つの橋がかかる区間の路線開業は1956年とだいぶあとのことになった。鉄を使わない橋を焦って造る必要は無かったわけである。

 

時は戦時下で筑豊地方からの輸送ルートを確保するため等の、開業を急ぐ理由があったのだろう。そうした戦前の計画性のなさが、この美しい3つの橋を生み出すことになった。このあたり歴史のおもしろい部分である。

↑沿線は美しい棚田とともに、ホタルの里としても知られている。すぐ近くには河川の流れを活かした棚田親水公園もある

 

【日田彦山線の記録⑦】魅力いっぱいだった沿線途中の無人駅

路線の魅力は3つの橋ばかりではない。途中で降りた駅も多くが魅力に満ちていた。なかでも興味を持ったのが大行司駅と宝珠山駅だった。列車が走った当時の様子を振り返ってみよう。

 

まずは大行司駅からだ。木造駅舎を抜けるとホームへ登る階段があった。階段はちょうど77段だった。大行司駅の駅舎は、残念ながら豪雨により倒壊してしまった。

↑大行司駅の木造駅舎。案内表示が何ともレトロだった(左上)。写真の駅舎は豪雨で倒壊、その後、村により2019年12月に再建された

 

↑駅舎から77段という階段を上がった上にホームがあった。豪雨災害時には気動車が2両取り残された。その後、車両は搬送されている

 

大行司駅の一つ大分県側の駅、宝珠山駅にも立ち寄ってみた。この駅もなかなか楽しい駅だった。同駅は福岡県東峰村の駅だが、ホームの3分の2地点に「県境の駅」という案内柱が立っていた。足下には同村特産の小石原焼の陶板が線状に埋め込まれていた。この陶板から南は、大分県日田市であることを示していた。駅自体が県境にあるというのもユニークで、なかなか楽しかった。

↑宝珠山駅の木造駅舎。古めの建物に見えるが、新しく1998年に建て替えられたもの。ホームには県境の駅を示す柱があった(右上)

 

【日田彦山線の記録⑧】列車は彦山や日田を今後通らないことに

訪れた2つの駅は後から気付いたことだが、みな東峰村の駅だった。村には他に筑前岩屋駅もあった。筆者は筑前岩屋駅を訪れる機会はなかったが、写真を見ると、木造でなかなか絵になる駅だったようである。

 

2駅を訪れてみて、東峰村の人たちが「村の駅」を非常に大切にしていたことが良く分かった。大行司駅は、倒壊した駅を村で直したほどである。もう東峰村の駅には列車がやって来ることはない。村の人たちに列車運行の廃止を悲しむ声が強いことも非常に理解できるように感じた。

 

路線の名前は日田彦山線である。ところが列車は小倉駅から添田駅までしか走らなくなった。路線の名となっている彦山そして、日田へ、小倉から列車で直接行くことはかなわなくなった。矛盾を抱えつつ日田彦山線は次の時代を迎えることになる。

↑大鶴駅〜今山駅間を走る日田駅行列車。大分県内に入ると、車窓にはのどかな田園風景が広がった

 

↑久大本線の夜明駅に停車する日田彦山線の小倉行列車(右)と、久大本線の下り列車(左)。こうした情景も過去帳入りしてしまった

【日田彦山線の将来】すでにBRT化された路線を見ると

日田彦山線のBRTを使った復旧計画ではJR九州は釈迦岳トンネルの前後部分7.9kmをバス専用道として整備し、ほかは一般道を走る計画だとされる。しかし、福岡県では7.9kmの専用道を、さらに宝珠山駅付近まで14.1kmほどに延長することをJR九州に求めていくとしている。このことにより最後まで鉄道を復旧させることにこだわった東峰村の村内では専用道を整備して、鉄道に近い形で復旧させたいというプランを示した。今後は、JR九州と福岡県との折衝により、この専用道の距離が決められていくことになる。

 

BRTに化した最近の例としては2011年の東日本大震災以降、鉄道による復旧を断念したJR東日本の2路線の例がある。大船渡線と気仙沼線だ。それぞれ、復旧可能な区間はBRT専用線として整備され、専用バスが、一般交通に邪魔されることなく、運行されている。駅は小規模ながらバス乗降場所として整備された。

↑東日本大震災後、鉄道による復旧を断念した気仙沼線は、その後BRT化に向けて整備を開始、2012年から本格的な運行を始めた

 

ここからはJR東日本の気仙沼線、大船渡線を筆者が乗って、そして見た長短について触れておこう。

 

気仙沼線は2012年に、大船渡線は2013年にBRTが運行開始された。すでに運行が始められてかなりの年数がたつ。BRT化の長所は、バスは鉄道よりも修正や変更が容易ということだろう。JR東日本の例でも駅(停留所)を増やしている。専用道からやや逸れて病院や学校に寄り道することも行われている。増便、増車もしやすい。専用道区間では、一般道の渋滞に巻き込まれる心配もない。

 

一方で、鉄道車両に比べると定員数が限られる。筆者は大船渡線BRTに乗った時に、混んでいたせいもあり窮屈に感じた。乗りきれない人も出ていた。大船渡線の場合は、専用道の舗装状態があまり良くなく、スピードを出した時は、思いのほか揺れを感じた。むしろ一般道を走っている時の方が乗り心地は良かった。とはいえ一般道を走る区間では、朝夕の渋滞に巻き込まれる。あとは、対向するバスの信号待ちがあることが短所に感じられた。

 

JR東日本では2020年4月1日に、両線の鉄道事業の廃止が行われた。この鉄道事業の廃止により、BRTバスが今後、どのように変化していくだろうか。今のところ鉄道事業の廃止から間もないこともあり、その影響は出ていないようである。

 

日田彦山線も鉄道路線の復旧は適わず、BRT化が進められることになった。鉄道好きとしては大変に残念であるものの、JR九州の経営状況などの避けがたい事情があった。形は変わるもののBRTによる復旧が、沿線に住む人たちにとって、不便にならないことを祈るばかりである。

 

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もう二度と列車が走らないーー「日田彦山線」の名物めがね橋を振り返る

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