JR高輪ゲートウェイ駅(東京都港区)西側で出土し、世界遺産級と称される鉄道遺構「高輪築堤」は、JR東日本の再開発で大部分が壊され、跡地に超高層ビルが建つ見込みだ。私は遺構をひょんなきっかけで見かけ、昨秋から取材を続けているが、再開発計画をより大胆に変更して保存範囲を広げ、後世に伝えるべきだと強く感じている。(梅野光春)

JR高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発工事現場から見つかった高輪築堤跡

◆初報は偶然から

 「お? 貝塚?」

 昨年10月上旬、高輪ゲートウェイから田町へ向かう京浜東北線の通勤途中の車窓から、土中になにか埋まっているのが見えた。ただ電車が高架を走るわずかな間しか、視界に入らない。

 翌日も目をこらすと、深く掘られた溝ののり面に、ごつごつした白っぽいものが層になっている。石垣の内部を固める「裏込め石」と知ったのは後のこと。かつてモース博士が東海道線の車中から大森貝塚を発見した故事を思い出し、ここにも貝塚かと早合点した。

 現地の再開発を進めるJR東に聞くと「貝塚ではないが、昔のものが出てきて調査中」との答え。写真を撮ろうと周辺をウロウロするも、フェンスが高くダメだった。ヘリコプターに乗り、やっと確認した。予想外に長い石垣で驚いた。

 港区教育委員会に確認すると、出土したのは高輪築堤といい、1872(明治5)年に国内で初めて鉄道が開業した際、東京湾の浅瀬に汽車を走らせるために築かれたという。初の鉄道をいきなり海上に敷設するのだから、率直にすごいと感じた。文明開化の象徴として、当時の錦絵に描かれたのも納得だ。

錦絵「東京名所図 高輪の海岸」に描かれた高輪築堤(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 鉄道史の専門家に聞くと「国の史跡や世界遺産に値する」と評価は高い。こうした取材をもとに、11月下旬に報道した。JR東は10日後に発表した。

◆遺構の見どころ

 偶然から生まれた初報だったが、その後の取材で、明治期の技術を伝える遺構の重要性とともに、面白さが分かってきた。

 1つは、なんと言っても規模の大きさ。今年3月までの発掘で、断続的に約800メートルに及ぶ石垣が姿を現した。上部は前記の「裏込め石」がむき出しになっているところが多いが、かつての海面に近い部分から数段分は、成形された石がきれいに積まれている。

 それがずーっと視界の先まで続いているのだから圧巻だ。ヘリからの空撮や、報道向けの現地見学会の取材を通じて、雰囲気を伝えたいと努力しているが、実物から感じる迫力は私の力不足もあって表現し切れていないと反省している。

第7橋梁の跡。築堤断面を覆う石積み(写真右上)を見ると、海側(右側)と陸側(左側)で表面の仕上げが違うと分かる 

 その長い石垣に付随して見つかった注目の構造物が2つある。1つは「第7橋梁」と呼ばれる、築堤間の水路をまたぐ橋の跡だ。鉄道開業時は高輪海岸と東京湾の沖合を行き来する舟もあり、築堤が舟運を妨げないよう水路が設けられた。現在の田町―品川駅付近に造られた2・7キロの築堤に計4カ所あり、第7橋梁はそのうちの1つ。ちなみに「第7」とは、鉄道の起点・新橋駅から7番目の橋だったからという。

 きれいに掘り出された第7橋梁の跡を、水路を通る舟の目線から見れば、築堤の断面を覆う石積みを観察できる。すると海側は平らに成形された石が、陸側は表面がごつごつした石が使われていると分かる。

 これは、線路が1899(明治32)年に3線化(複線に加えてもう1線あった)された際に築堤を拡幅した痕跡という。建設当初と違う趣向の石を積んだということらしい。それが結果として、鉄道が開業から30年足らずで、日本の東西を結ぶ大動脈として重要性を増したことを示す証拠となった。

 もう1つの見どころは、鉄道信号機の跡だ。田町方面から品川方面を見て築堤がゆるやかに左カーブを始めるあたりの海側(田町方面からだと左側)ののり面に、2メートル四方ほどのサイズで石垣を盛り上げた土台が見つかった。

高輪築堤跡で新たに確認された鉄道信号機の土台跡(中央)

 内部には角材を十字形に組んだ構造物があり、専門家が明治期の資料と照らし合わせた結果、信号機の柱を建てた基礎だと分かった。十字形の中心には、へこみがあり、そこに柱を立てたとみられる。当時の信号機は腕木式と呼ばれ、柱に取り付けた細長い木の板で「進行」などの合図を示した。

 専門家によれば、新橋から品川へ向かう汽車に向けた信号機とみられるという。逆方向に走る汽車用の信号機もどこかにあったはずだが、今のところ見つかっていない。それだけに貴重な、国内最古の鉄道信号機の遺構と言える。ちょうどこの信号機を写したとみられる、明治末~大正前期の写真入りはがきも残されている。

◆実は壊す「記録保存」

 遺構はもともと「品川開発プロジェクト」という再開発の最中に見つかった。東京圏に国際交流拠点を整備する国家戦略特区として国や都も後押しする。ただ、貴重な遺跡の存在を前提としない再開発だったため、出土を契機に計画を大幅に見直す選択肢もある。

 JR東は今年3月になって、4つの開発エリアのうち、第7橋梁を含むエリアについては300億~400億円かけて計画を見直し、約80メートルを保存する案を自民党の議連会合で提示。別ののエリアの公園予定地にある遺構も含めて、現地保存する方針を示した。

 一方、残る部分は「記録保存」で対応するという。実はこの「記録保存」が、遺構の保存を願う者からはくせものだ。「保存」という言葉は含まれているが、実は、遺構の様子を記録した上で壊してしまうということだからだ。もちろん、記録は残るから「記録保存」なのだが。

 このため専門家からは「より広範囲を残すべきだ」「すべて現地保存すべきだ」という意見が消えない。自民党の議連に示された見直し案では、先ほど記した遺構の見どころのうち、長大な石垣のほとんどが消え、信号機跡も壊されてしまう。

 しかし大手デベロッパー関係者に意見を求めると「東京のように歴史を重ねた街で、遺跡が出るたびに保存していては再開発ができない。歴史を大事にするあまり、現在や未来を生きる人の幸せを犠牲にしていいのか」と反論する。

 確かに高輪ゲートウェイ西側は、新幹線や羽田空港へのアクセスもよく、ビジネス拠点としては1等地だ。JR東はコロナ禍で鉄道営業収入が減少しており、2024年度の街開きを目指す品川開発プロジェクトに対する期待が強いのも、分からないでもない。

◆一拍おいた再開発を

 しかし、あらためて計画の見直しをするよう、JR東にお願いしたい。再開発では高輪ゲートウェイ駅の駅前広場建設をはじめ地域にもメリットがありそうだ。とはいっても、主眼は国際交流拠点の整備。仕事で来日する外国人とその家族を当て込んだ宿泊・居住施設やインターナショナルスクール、国際会議場が目玉の1つとなっている。

 だがコロナ禍で海外との行き来はここ1年、低調なままだ。その間に国内外を問わずオンラインで済ませる業務が広がった。コロナ前に見込んだ国際交流拠点としての機能が、将来どれだけ必要か再考しつつ、高輪築堤の存在も前提に加え、計画を描き直してもらえないだろうか。

 なぜなら、保存されれば国の史跡として指定される公算があるからだ。同じ時期に建設された旧新橋停車場(その後の汐留駅)は指定済みだ。それとつながる遺構だけに、史跡としての価値に加え、観光資源になるポテンシャルがあるとみるのは素人考えだろうか。もっとも、同時期に建設された富岡製糸場(群馬県)が世界遺産となり、観光地としてのネームバリューを高めた事例から、高輪築堤の保存を訴える近代史の専門家らも少なくない。

 所在が分かっていなかった文化財が開発中に出た場合、保存の範囲は地権者の判断で決まるのが原則。ここは、第7橋梁の保存へ動いたJR東に、もう一度立ち止まってもらい、より広い範囲を保存する努力を期待したい。

 それがどうしても無理なら、壊す前にできるだけ多くの見学会を開き、コロナ禍で見学を遠慮する人に向けてはより詳細な画像を公開してほしい。150年前に人力で造られた高輪築堤を壊してしまうのは簡単だが、もう2度と実物を見ることができなくなるのだから。

高輪ゲートウェイ駅(中央左)の西側(写真上)で発掘作業が進む高輪築堤跡

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