1868年、上野戦争により寛永寺の大部分が焼失し、一帯は焼け野原となった。『温古写真集 17.上野寛永寺戊辰戦禍後』。東京都江戸東京博物館所蔵。写真:東京都江戸東京博物館 / DNPartcom

江戸城の無血開城によって平和裏に江戸は東京に生まれ変わった。そう信じてきたが、この言説には若干偏った史観が含まれている。当時、東京でも戦があったのだ。戊辰戦争の戦闘のひとつ、上野戦争。会津戦争や五稜郭の戦いに比べると知名度が低いか。“上野戦争”というネーミングには、地域限定の戦争といったニュアンスがある。だが、それは実際どれくらいの規模や期間だったのだろう。

当時の上野は寛永寺の門前町として、いま以上に栄えていた。上野戦争は、都心で起きた市街戦。上野広小路の「雁鍋」という料理屋の2階に鉄砲隊が配置され、寛永寺の黒門に向けて狙撃が行われた。これは古今亭志ん生(5代目)の落語『火焔太鼓』の枕として知られている。この雁鍋は文豪たちにも親しまれていたが、後に「牛鍋の世界」という飲食店に変わり、「世界ビル」が建ち、現在は「THE V-CITY UENO」という商業ビルになっている。場所は、上野公園前の交差点近く。上野公園の入り口が当時の寛永寺黒門である。上野戦争の最激戦区だ。

知名度の低い“上野戦争”とは、どれほどの規模だったのか。

激戦区だった上野公園前の交差点近く。現在パチスロ店の隣に立つビルの辺りで、名高い料理店の雁鍋がかつて営業していた。写真:Pen編集部

杉本章子の小説「ふらふら遊三」の主人公、三遊亭遊三は落語家である。彼は上野戦争を彰義隊の一員として戦い、生き延びた実在の人物。落語家になるのは、戦争のずっと後のこと。遊三は、なぜ彰義隊に入隊したのか。結婚の世話をしてもらった人物に誘われ、断るに断れず山に向かった。彰義隊というと、全員討ち死にを覚悟し、新政府に楯突いて立て籠った人々という印象があるが、戦争すら想定せずに出向いた人もいたのかもしれない。

上野戦争は、上野の山に立てこもった彰義隊と、それを包囲した官軍、つまり薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府側との間で起きた戦争である。たった半日で決着が着いたが、睨み合いは3ヶ月ほど続いたという。彰義隊とはどんな集まりだったのか。諸藩の藩士や浪人、果ては渡世人らの寄せ集めの集団だった。多い時には、3000人を超えていたそうだ。年齢は10代から20代半ば。

知名度の低い“上野戦争”とは、どれほどの規模だったのか。

落語家・三遊亭遊三の生涯を描いた小説「ふらふら遊三」が収録された『爆弾可楽』(杉本章子著 文藝春秋 1993年)写真:青野 豊

ただ立て籠っていたわけではない。都市での生活も併存した。杉浦日向子の『合葬』は、彰義隊の若者たちの日常を描いた漫画である。内部では主戦派と消極派で日々論争が続いていが、若者たちは遊びに出かけ、雁鍋をたまり場にもしていた。吉原の遊郭に行くこともあった。当時の吉原は、深川に移転している。上野から深川まで5kmほどの距離だが、昔の人なら平気で歩いただろう。彼らは金払いもよかったし、薩長の田舎侍とは違い、遊びにも慣れていた。そして、いつ死ぬかわからないという緊張感も抱いている。遊女たちの間では「情夫に持つなら彰義隊」という言葉も生まれたという。

彼らがここに集まってきた理由もそれぞれ。幕府への恩義を感じる者、新政府のやり方に納得がいかない者など。一方、自分の家に居場所がなかっただけの者もいた。俯瞰して見れば、冷静に時局を判断できない者たちの集まりでもあった。訪れつつあった当時の新しい秩序=新政府という“ニューノーマル”を受けれ入れることに反発を覚え、それに流されないことを選んだのだ。

知名度の低い“上野戦争”とは、どれほどの規模だったのか。

彰義隊の若者たちの日常を描いた漫画『合葬』(杉浦日向子作 筑摩書房 2015年)。2015年には映画化もされている。写真:青野 豊

ここで上野戦争に至るまでの歴史上の経緯を説明しておく。江戸幕府15代将軍の徳川慶喜は、幕末に活躍した人物の中でもキーパーソンだ。彼は鳥羽・伏見の戦いで破れると大阪から江戸に退却する。当初は新政府軍より旧幕府軍のほうが軍事的には優位で、幕臣を含め慶喜の周辺は勝機があると考えていた。だが、これによって歴史の流れが変わったのだ。

江戸に戻った慶喜は恭順の意を示すため江戸城を引き払い、上野の寛永寺に籠る。当時の寛永寺は普通の寺ではない。30万坪を超える広大な敷地だ。さらに三方を断崖に囲まれ、8つの門を構える要害でもある。ここに慶喜警護のための彰義隊が結成されたわけだ。

知名度の低い“上野戦争”とは、どれほどの規模だったのか。

静岡の徳川慶喜の屋敷跡、現在は料亭として営む「浮月楼」には、自転車に乗る慶喜のイメージパネルが展示されている。写真:静岡市 けいきさん自転車復刻プロジェクト

しかし、慶喜には新政府軍と戦う意志はなかった。江戸が戦火にのまれる事態を避けたのは、勝海舟と西郷隆盛の会談によるもの。もう一方では、慶喜の判断がそれをもたらしたという見方もできる。

慶喜はその後上野を去り、水戸に3カ月間の謹慎、後に静岡に居を移した。静岡ではカメラ、自転車、銃猟などの趣味を満喫していたそうだ。実は日本最初期のアマチュアカメラマンでもある。彼は晩年に撮った写真を、徳川幕府の艦隊副総裁だった榎本武揚に送ったりしていた。


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