細野晴臣の『泰安洋行(Bon Voyage co.)』は、1976年7月25日に発売されたソロとして通算3作目のスタジオ・アルバムである。

そのA面の4曲目に入っている「ルーチュー・ガンボ」のエンディングで、チラッとだけ出てくる「ハイサイおじさん」が、日本の音楽シーンに残してくれた功績をあらためて考えたのは、今年に入って「変なおじさん」の替え歌を唄った志村けんが、コロナウィルスで命を落とすというショッキングな出来事が起こったからだった。

「ハイサイおじさん」は沖縄のミュージシャン、喜納昌吉&チャンプルーズの楽曲で、今では沖縄音楽を代表する歌として知られている。

細野晴臣がこの曲を知ったのは1975年、「ハイサイおじさん」が全国的に有名になる前のことだ。

ミュージシャン、の久保田麻琴が沖縄のお土産として、レコードを買ってきてくれたのがきっかけになった。

久保田と細野が初めて会ったのは1974年のことで、そこから交友が一気に深まっていった。

その経緯を調べていくことで始まった音楽的に共通するアプローチが、二年後に『泰安洋行』という名作に凝縮されたという事実を、音楽ライターの長谷川博一氏は発売から長い歳月を経て、あらためて調べたうえで「追憶の泰安洋行」という一冊の本にまとめた。

「イエロー・マジック、ここに生まれる」というタイトルの前書きには、このアルバムに対する長谷川氏の真摯な思いが、このように詳しく述べられていた。

ここではないどこかを見つめ、楽園を目指していくような当時の細野晴臣の音楽路線はトロピカル路線と呼ばれています。

まず75年にアルバム『トロピカル・ダンディー』が発表され、続いて翌年76年にこの『泰安洋行』がリリース、2枚のソロ作の言わば中間の時期に、「イエロー・マジック・カーニバル」が世に生まれ、『泰安洋行』はイエロー・マジック路線をさらに拡大していきます。

前作ソロにあったカリブ海の音楽やチャイニーズなアレンジメントに加えて、この『泰安洋行』には新たに沖縄音楽、ニューオーリンズの音楽、アメリカ産のブギウギ音楽などが加えられ、東洋人にしかできないような絶妙なリズム音楽が奏でられています。

個人的にはこの『泰安洋行』こそ、音楽家・細野晴臣50年余の多岐にわたる音楽活動の中で、最大の音楽的遺産ではないかと思っているものです。

イエロー・マジックな魅力に溢れる『泰安洋行』が生まれたいきさつをいろいろ知りたい。

『泰安洋行』という快適なシー・クルーズにとってのガイドブックのようなものが欲しい。そう思いながらこの本を書きました。

楽しんでもらえたら幸いです。

2019年6月8日 長谷川博一

ぼくがこの日付にショックを受けたのは、それからおよそ一か月後の7月半ばに、長谷川氏の訃報に接していたからである。

なお、その時の気持ちは本コラムの101回で 、「長谷川博一さんを悼む」としてまとめた。

長谷川博一さんを悼む

2019.07.16

沖縄のミュージシャン、喜納昌吉&チャンプルーズの楽曲だった「ハイサイおじさん」は、今では替え歌をふくめて、沖縄音楽を代表する曲として知られている。

細野がこの曲を知ったのは1975年、「ハイサイおじさん」が全国的にヒットする前のことだ。

ミュージシャン仲間の久保田が沖縄のお土産として、シングル・レコードを買ってきてくれたのがきっかけになった。

久保田と細野が初めて会ったのは1974年のことで、そこから音楽面での交友が一気に深まったという。

音楽ライターの長谷川博一氏はその経緯を調べて、そこから始まった音楽的なアプローチが2年後に『泰安洋行』という、名作に凝縮されたという事実を発売から長い歳月を費やして調べることで、一冊の本にまとめあげた。

「追憶の泰安洋行」によれば、二人の出会いはレコーディング・エンジニアで、プロデュースも兼ねていた吉野金次の提案によるものだったという。

久保田がこんなふうに回想している。

「プロデューサーの吉野金次さんが「細野さんを呼んでみようか?」と言い出したんです。1曲だけ「小舟の旅」という曲のアレンジをお願いしました。気が合って話をするようになり、当時、細野さんが住んでいた落合のアパートによく行きました」

そして夕焼け楽団のアルバム『サンセット・ギャング』を完成させた久保田は、アメリカ放浪旅行に出かけたのだが、その帰り道にハワイに立ち寄ったことで、アジアの匂いを漂わせる不思議な文化に出会うという体験をした。

そして75年初頭に沖縄に行ったときに西表島の観光バスに乗っていて、喜納昌吉の「ハイサイおじさん」を耳にして驚愕させられたのだ。

「喜納昌永さん-昌吉のお父さんですね、その昌永さんの民謡のカセットが、たまたま、かかっていたんです。

マルフク・レコードという、地元の民謡・古典音楽のレーベルのカセットです。

そのアルバムに、息子の昌吉が二曲だけ入れていて、これを聴いて驚いた。

急にドラムもエレキも入って来たので、驚いてバスの運転手さんに、『これなんですか』って聞いたら『民謡だ』。

『ええ? 民謡じゃないだろ』(笑)。

他の曲は三線でチントンやっているのに。

チャンプルーズという昌吉のバンドの演奏だったわけです」

そのことを「興奮を抑えきれない音楽と出会った」と絵はがきに書いて、久保田は細野に送っていた。

それから那覇のマルフクレコードで購入した喜納昌吉のシングル盤を、土産品として本土に持ち帰ったのである。

それに鋭く反応したのが細野だった。

1975年2月8日、細野は中断していた2枚目のソロ・アルバムのレコーディングを、東京・溜池のクラウン・スタジオで再開した。

このアルバムは前年の11月25日から制作していたのだが、途中から悩んで中断せざるを得なくなってしまったものだ。

理由は細野がずっと悩んで、悶々と過ごしていたからだという。

そんなところに訪ねて来た久保田が、お土産に買ってきたレコードの「ハイサイおじさん」を聴いたことが、レコーディングを再開するきっかけをくれたのだ。

長谷川氏は「追憶の泰安洋行」の中で、久保田からそのいきさつを聞きだしていた。

「何回か会っていくうちに、私が”細野さんてトロピカル・ダンディーだからなあ”って言ったんですよ。何かそういう格好が似合うなあと思ってね。麻のスーツとか。顔だちは濃い日本人なのに、ハイカラな格好をしているイメージがあるでしょ。そういうオーラがある。ポロっと言ったら”あっ、それいただき!”と細野さんが答えて、それがアルバム名になったんだね」

細野自身もレコードを一聴して、なにかゾクゾクしてくるものを感じたと述べている。

そしてこんな音楽が日本にあるということに気付かされて、最高に楽しい気分になったとも語っていた。

当時の日本では録れない、ジャマイカのレコーディングのような音でした。

スカの古いレコードみたいな音がしてたんです。

音もそれに匹敵するインパクトがあったんで、びっくりした。

当時からよく聴いていたニューオーリンズの音楽、たとえばドクター・ジョンの「ガンボ(Gumbo)」などと「ハイサイおじさん」は、なんの違和感もなくグルーヴとサウンドが繋がっていた。

そこからニューオーリンズにとってのジャマイカのように、細野には日本における沖縄という地理的かつ文化的な構図が見えてきたのである。

細野は久保田と二人で「次はチャンプルーだ!」と盛り上がった。

そしてまだ沖縄料理を一口も食べたことがないまま、面白い音楽はいずれも異文化の混合であり、料理でいえばごった煮であり、沖縄の言葉ではチャンプルーだとわかったのだ。

そうしたことがニューオリンズのガンボ(ごった煮)や、ニューヨーク・ラテンのサルサ(ソースの意)ともつながってきた。

細野と久保田が一気にハイになっていったのは、香りと音楽は記憶を甦らせてくれるという話で、意見がピタリと一致したからでもあった。

料理における味つけや匂いというものが、音楽とも大いに関わりのあることに気づかせられた。

細野は「トロピカル・ダンディー」の話を久保田に聞いた翌日、偶然にもヤマハ音楽振興会の『ライトミュージック』編集部を訪ねる用事があった。

そこでいきなり、当時はまだ音楽ジャーナリストだったプロデューサー、S-KEN(田中唯士)から『細野さん、チャイニーズ・エレガンスっていいですね』と言われたという。

そしてエキゾティック・サウンドや民族音楽のレコード、テープなどを聴かせてもらった。

そこからトロピカルとチャイニーズとエレガンスという言葉が、はじめてコンセプトになったのである。

期せずして久保田とS-KENに手がかりをもらった細野は、スタジオでの作業を再開した。

テーマ は「エキゾティック」と「トロピカル」のふたつだった。

「その前ずっと、僕は神経症の発作みたいなものにさいなまれていたんだけど、それを克服する方法が見つかったんです、そのころ。ものすごい解放感。目の前がワーッとひらけちゃった」

再開から2ヶ月後に完成したソロ・アルバムは、『トロピカル・ダンディ』と名付けられて6月25日に発売された。

その流れが久保田麻琴と夕焼け楽団のアルバム『ハワイチャンプルー』にも結実していく。

アルバム録音のためにバンドのメンバーがハワイに向かったのは、1975年8月2日のことだった。

同作で、細野はプロデュースや楽曲提供だけでなく全曲ドラムを叩いている。ドラマーとしてフル参加しているアルバムは、後にも先にもこの作品だけ。思いがけない命ドラマーの誕生は、ハワイへ向かう前の合宿の時だった。叩いたのはスネアでなく座布団だったというのも、なんだかいい話。

夕焼け楽団のマネージャーだったKさんの別荘が八ヶ岳の山麓にあった。

そこでみんなで合宿をしているときに、久保田が「ドラムがいないけど、どうしようかな?」と言うと、細野が自分で座布団をたたき出したという。

「あ、僕がやろうかな」と座布団を叩き出したんだ。実はドラマーになりたかったんだよみたいな感じで座布団を叩いてると、”いいじゃん!いいじゃん!”とみんな相乗りしてね。いや真面目な話、細野さんのドラムは私が一番歌を歌いやすいドラムだった。

中華風のアレンジを盛り込んだ南正人の「上海帰り」のカヴァーや、国府輝幸のドクター・ジョンばりのニューオーリンズ・ピアノで始まる「バイ・バイ・ベイビー」、それにポピュラーのスタンダードの「国境の南」に日本語の歌詞をのせた曲があったり、全体にチャンプルー感覚に溢れるアルバムになった。

そしてやはりハイライトは、「ハイサイおじさん」のカヴァーだった。

そもそもはレコーディング中の余興として演奏したのだが、ストレートにカヴァーするのではなく、ハワイアン風味のイントロダクションを付け足したり、ニューオーリンズのビートを練り込んで、しっかりと自分たちの音楽にしていた。

沖縄列島という島々に伝わってきた土着性をもとにした音楽と、そこにハワイという島々に伝わるアジアの文化をつないだことで、ジャズのルーツとなったニューオーリンズやカリブ海の島々のラテンミュージックをも加えた、元祖アイランドミュージックと言えるものができたのである。

それをさらに発展させたのが、1年後の『泰安洋行』ということになっていく。

その中の「ルーチューガンボ」のエンディングには、細野晴臣の唄う「ハイサイおじさん」が聴こえてくる。

この2枚のアルバムで「ハイサイおじさん」がカヴァーされたことで、日本の最先端の音楽ファンの間で、喜納昌吉は知る人ぞ知る存在になった。

そして1977年に『喜納昌吉とチャンプルーズ』でメジャー・デビューすると、日本でもライブをするようになり、「ハイサイおじさん」を全国に広めていったのである。

そうしたことのきっかけとなったのが夕焼け楽団のカヴァー・ヴァージョンで、そこを発展させたのが細野晴臣の『泰安洋行』だった。

すべては人と人とのつながりであり、そのつながりは音楽によってもたらされた、ゾクゾクするような思いがつながることで、次なる音楽を生み出してきたものだった。

「追憶の泰安洋行」にはそういう大切なことが、くまなく丁寧に書き込まれている。

まだ最後まで読み終えてはいないのだが、生真面目で誠実な長谷川氏の遺作にふさわしく、ノンフィクションの傑作が誕生したと思って、心から熱い拍手を送りたい。

アルバム『泰安洋行』

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。

シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。

久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。

2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。

著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛

ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。


クレジットソースリンク